中田主税『雑交苦口記』巻之三より

弘法水

 元文年間、下野国の古河というところで、「弘法水」というものが流行った。
 そこらの川水なのだが、山師かなにかが言いだして、近在近国から貴賤の人々が群集し、「この水には万病を治す力がある」と、あるいは水を飲み、あるいは水に入って身を洗った。
 「潰れた眼があいた。腰抜けが立った。そのほか色々奇跡があった」と言いふらしたが、結局は何にも効かず、ほどなく寂れて、一人も行く人がなくなった。
 今は往来の人が小便を垂れ、土足を洗う。笑うべきことだ。

 弘法水が流行っていた当時、こんなことがあった。
 筆者の長男の与市右衛門方へ、関宿の知人が、弘法水を竹の筒に入れて送ってきた。家内の下男下女どもは有難がって、それを飲んだり、できものに付けたりした。与市右衛門はそういうことを信じない性質なので、さして尊ばず、打ち捨てておいた。
 しかるに、与市右衛門の首筋には、数年前にムクロジの種ほどの瘤が出来て、時がたつにつれて見苦しいほど大きくなっていた。そこで傍らにあったこの水を、何の期待もせず、もちろん信心もないままに、たびたび付けてみたところ、まもなく平癒して、瘤は跡形もなくなった。
 家内の者は「たいした効き目だ」と言って有難がったが、筆者は、これはちょうど平癒する時節だったか、普通の水を付けて冷やすだけでも平癒する瘤だったのだと思う。
 平癒する時節ならば、弘法水を付けなくても癒えるはずだ。平癒すべき時節にたまたま水を付けたのは、弘法にとって幸いであった。
 その証拠に、誰でも与市右衛門のように平癒するかといえば、まったく治らない病が多い。平癒しない腫物、治せない病は、弘法水はおろか、神仏が目の前に座ってくれても、どうにもならない。治らぬ病は治らず、死ぬ病は死ぬのだ。

 そのころ浅草鳥越あたりに、何某という隠居がいた。数年来インキンタムシができて全身に広がり、難儀していた。
 古河まで行って弘法水で洗っても、まるでまったくまるっきり効かず、一生治らずに死んでいった。
 また、神奈川に鼈甲屋半七という町人がいた。瘡毒で両目が見えない身で、はるばる古河まで行って、弘法水で目を洗った。するとだんだん見えてきたような気がして、「不思議だ、有難い」と喜び、懸命に路銀を作っては古河へ通い、たびたび洗った。けれども、とうとう見えるようにはならず、両目とも潰れたあげくに死んだ。半七の暮らしはもとより貧しく、親も妻子も路頭に迷い、離散した。
 この悲惨な結末をもたらしたのが弘法だというから、むごい話ではないか。なけなしの銭を遣い、はるばる古河まで参ったのに、平癒もさせない。弘法殿には似合わぬ仕打ちだ。怨めしや、怨めしや。
あやしい古典文学 No.1534