森田盛昌『咄随筆』下「狐に似たる出家」より

天刹

 加賀藩家老 本多安房守が、ある年、能登の和倉へ湯治に行った。
 和倉という村は、小さい磯辺に少々の家があって、温泉が二百メートルほど沖の海中に湧いている。
 石を積んで造った小島があり、その上に桶を据えて湯を汲み入れる。桶が幾つも並び、桶一つに一人ずつが入湯するのだ。また、汲んだ湯を磯辺の宿に運んで入る者もある。
 気楽な庶民はこれでいいのだが、地位の高い人は、粗末な宿に泊まるわけにもいかない。それで、所ノ口というところに宿を取り、湯を取り寄せて、据え風呂で入る。

 安房守も、所ノ口の橋本屋という宿に泊まった。時々近くの山々浦々に遊ぶのも、保養のための気晴らしとのことだった。
 あるとき、小舟に弁当や酒を積んで、竹町から漕ぎ出し、押ヶ崎・二つ岩・屏風崎などを過ぎ、和倉を一見して瀬嵐というところに漕ぎ寄せ、しばらく休憩した。
 そこには人丸明神を祀った小さな祠があった。枯松の枝の垂れた古い宮である。祠の前に、石の五重塔があった。その古さは幾百年とも知れず、みごとに苔むしている。安房守はことのほか賞嘆して、土地の者に請うて譲り受けた。
 湯治を終えると、新たな塔を建立したうえで、古い五重塔を移して、金沢の本多屋敷の庭に据えた。その後、安房守は甚だ体調を崩した。

 近年、高岡から天刹という僧が金沢に来て、武家や町方に出入りした。
 天刹の人相は異常だった。狂言「釣狐」の伯蔵主(はくぞうす)の面そっくりだった。食事をするにあたり、箸を用いるのは不自由なようで、心安い家では手づかみで食った。
 先々のことなどを確かに見通すので重宝され、あちらの家・こちらの家と、さかんに行き歩いていた。本多屋敷にも呼ばれた。
「安房守殿の御病気のわけは、ほかでもない、神の大切な物を奪ったからです。早くお返しなさい」
 天刹に言われ、かの五重塔のことを思い出して、瀬嵐に返した。しかし病状は重くなるばかりだった。

 金沢の名医たちも手に負えないと思われたので、京都へ飛脚を遣って、朝廷の医師である御典薬(ごてんやく)を呼び招くことになった。
 それより先、安房守の家来の何某は、献上品の件で京都に出張していたが、その宿へ天刹が来て、
「そなたは明後日、金沢に帰ることになる。支度をするとよい」
と知らせた。
 はたして飛脚が来て、御典薬を招くことを告げた。同道せよとのことだったので、何某は御典薬の誰それの供をして金沢へ帰った。
 後で考えると、天刹が金沢に居た日と、何某が京都で天刹と会った日とは、わずか一日ちがいだった。

 安房守はついに本復せず、正徳五年三月十九日に死去した。
 天刹は享保七年ごろに死んだとかいう。
 松釜屋藤四郎の語った話である。
あやしい古典文学 No.1537