森田盛昌『咄随筆』上「笠松が黒手切」より

黒手切

 笠松家の先祖 笠松但馬守は、能登の畠山家の家臣で、七尾に住んでいた。
 あるとき但馬の妻女が雪隠に行ったら、変化のものが下から手を伸ばして、尻を撫でた。妻女は驚くことなく、雪隠を出て夫に話した。
 今度は但馬が、小脇差を提げて雪隠に入った。予期したとおり尻を撫でる手を、そのまま掴んで、小脇差でごりごりと切り取った。
 熊のような黒い手だった。黒い毛が生えて、爪の長さは一寸ほどもあった。不思議なものだと思って、細い縄で括り、折れ釘に掛けておいた。
 それから三日後、九人の巡礼がやって来た。茶など振る舞うと、よもやまの話をする中で、妙薬の処方などを教えてくれた。
 やがて巡礼は、掛かっている手を見て、
「あれは、どういうものの手でございますか」
と尋ねた。
 但馬はいきさつを語り、望まれるまま釘から外して見せてやった。巡礼たちは上座から順々に手渡しして見ていたが、いつのまにか九人とも姿を消してしまった。渡辺綱が茨木童子に手を取り返されたときのような心地で、但馬は茫然としてしまった。

 その時代の人は、但馬を「笠松黒手切」と異名した。手を切った小脇差も「黒手切」と名づけられ、笠松家の子孫に伝えられた。
 元和年間、後の加賀藩主前田光高公に御守脇差として献ずるためか、藩の老臣 長如庵が、但馬の孫の笠松仁兵衛に「黒手切」を所望した。
 仁兵衛は、有難き幸せと返答して能登に帰り、小脇差を取り出して蓑の下に差した。その足で駅馬に乗って金沢へ向かったが、途中の高松の浜で辻風に吹かれ、その間に脇差は鞘ばかり残して失せた。
 この次第を如庵に報告すると、
「鞘ばかりでは、話にならんではないか」
と叱られ、しばらく蟄居したが、ほどなく赦免された。
 残った鞘は、仁兵衛の子の新左衛門に伝わった。しかし、延宝五年の折違橋(すじかいばし)の火事で焼失して、今は鞘さえない。
 巡礼が教えた妙薬の処方は、笠松の家伝として今もある。黒い薬で、打ち身・切り傷などによく効く。
あやしい古典文学 No.1538