『大和物語』百五十五段「安積山」より

安積山

 昔、ある大納言家にたいそう美しい姫がいて、父親の大納言は、ゆくゆくは天皇に奉ろうという気持ちで大切に守り育てていた。
 ところがあるとき、大納言のそば近くに仕える内舎人(うどねり)の男が、どういう偶然か、姫の姿を見てしまった。
 男は一瞬で、姫の美しさに心を奪われてしまった。もはや何事も上の空で、昼も夜も面影ばかりが心に浮かび、叶わぬ恋の悩みに病み臥してしまいそうだった。
 ついに決意して、
「ぜひともお聞きいただきたいことがあります」
と部屋近くまで行って声をかけ、
「あら、なにごとですか」
と出てきたところを、さっと抱きかかえて馬に乗せ、遠い陸奥国まで、夜といわず昼といわず、ひたすら逃げていった。

 安積(あさか)郡の安積山というところに至ると、そこに庵を作り、ともに住んだ。
 男は里に出て食べ物などを手に入れて帰り、女に食べさせた。男が出かけると、女は物も食わず、ただ独り山中の庵にいて、かぎりなく心細い気持ちで帰りを待った。
 そうやって何年もの月日を過ごすうち、女は懐妊した。
 ある日、いつものように男は物を求めに出かけたが、そのまま三四日帰らなかった。女は待ちわびて、庵を出て、山の泉のところまで歩いていった。
 泉のほとりに立つと、水面に女の姿が映った。かつての自分とは似ても似つかない見苦しい姿だった。庵には鏡などなく、ずっと自分の変わりようを知らないでいたから、突然たいそう恐ろしげな我が顔を見て、恥ずかしさでいたたまれない気持ちになった。
 そこで、歌を詠んだ。

 あさか山影さへ見ゆる山の井の浅くは人を思ふものかは
(安積山の影を映す山の泉に、変わり果てた私が見える。私の心は、こんな泉よりずっと深くあなたを慕っているのに…)

 女は、歌をかたわらの木に書きつけ、庵に戻って、悲しみのあまり息絶えた。
 やがて男が帰り、女が死んでいるのを見て、たいそう驚いた。茫然とさまよい出て、山の泉まで行き、木に書きつけられた歌を見た。
 男は庵に戻ると、女に添い臥して、その心を思いやり、恋しさと悲しさの中で死んでしまった。

 これは、世に伝わる古い昔の恋物語である。
あやしい古典文学 No.1540