橘南谿『黄華堂医話』より

心火の病

 尾張の侍が、主君が江戸へ向かうのに従って旅立った。
 その日の夕方、旅館で便所に入ったところ、きん隠しの板の先に、一尺ばかりの小さな青い鬼が、ふと現れた。びっくりして脇差を抜き、切りつけたら、そのまま消え失せた。
 あれはなんだろうと不審しつつ夜の膳に向かうと、かの青鬼がまた膳先に現れた。ただ膳の前に蹲っているばかりで、何か害をなす様子でもない。
 侍は傍らの人に、
「これが見えるか」
と尋ねてみた。他の人には見えないようだった。
 いよいよ怪しみながら、ともあれそのまま食し終わると、鬼も何事もなく消え失せた。
 翌朝、便所に行くと、前日と同じく鬼が出た。

 その後は、一日にニ三度ずつ、膳の先、便所の中、あるいは昼休みのときなどに、必ず鬼が現れた。
 なにしろ説明のつかない怪事だから、主君に言うこともできず、無理して御供を続けたが、毎日鬼を目にして、鬼のことばかりが心にかかり、安らぐ時がなかった。
 結局、三四日で音をあげて、他の病気を口実に「国もとで養生を…」と願い出て、途中から名古屋へ引き返した。
 医師にかかったところ、「心火の病」だとして、三黄湯を多く処方された。
 十日ほどすると鬼の出る回数が少なくなり、一月ばかりの後は鬼も見えず、病が平癒した。

 このことは、名古屋の儒者 奥田周之進が語った。侍のかかった医師の名も語ったが、それは忘れた。
あやしい古典文学 No.1551