池田定常『思ひ出草』巻四「神女之事」より

吹けよ山風

 松浦静山翁が語った話だ。

 ある平戸藩士が、領内の山へ猟に入った。
 何の獲物もないまま歩き回って、ふと川を隔てた向こうの山際を見ると、一頭の鹿が立っていた。
 あれを撃とうと思い、鉄砲に弾を込めて狙いすましたところ、鹿は逃げ、一陣の風が起こって、草木ことごとく地に伏すとともに、えもいわれぬ薫りがあたり一面に漂った。
 空には紫の雲がたなびいた。雲の中に絵に描くところの天人ともいうべき婦人の姿があって、流れゆく雲とともに空を渡っていった。どこからともなく、
「吹けよ山風、おろせよ簾…」
という歌声が耳元に聞こえ、誰が歌うのか見ようとするも、自然と頭が地に着いてもたげることができなかった。
 しばらくして頭を上げると、もとのごとく晴天で、不思議なものの影も形もなかった。
 あまりにも怪しいことだったので、城下へ帰ってのち、静山翁に見たままを報告したという。
あやしい古典文学 No.1556