馬場文耕『頃日全書』巻之四「鳥居伊賀守美男に付異説まちまちの事」より

美男大名

 下野国壬生藩主の鳥居伊賀守忠孝は、日本一の美男として、世間に広く知られる。
 奥方は京極佐渡守の叔母にあたる人で、伊賀守にぞっこん惚れ込んで結婚にいたり、夫婦の仲ははなはだ睦まじかった。
 ところが、婚姻の翌年、伊賀守は一時の御暇を下されて領地の壬生に帰ることになった。
 奥方は別れの悲しみで涙にくれ、初めての出会いからこのかたの契りをかき口説き、
「わたくしを、何としても壬生へお連れくださいませ。おそばを少しでも離れることは、命ある限り出来ません」
と縋ったが、幕府の決まりでそれはできない。伊賀守はいろいろと宥めすかし、奥方を江戸に残して発っていった。

 その日以来奥方は、寝ては涙で床を濡らし、醒めては袖の乾く間もなかった。面影がひとときも忘れられず、だんだん乱心のようになって、大声で、
「殿様に逢いたい。恋しい、恋しい!」
と叫びまわった。
 あまりに正体のない有様に、お側付きの老女などが諫め、宥めても、少しも耳を貸さず、
「下野の壬生とやらは、どこにある。我を連れていけ!」
と、腹這って駄々をこねた。まことに哀れで、気の毒な様子であった。
 鳥居家の奧家老 高須蔵人がこの騒ぎを聞き、
「はしたないですぞ。殿様をそれほどに恋い慕われるのは、一途な女心で悪いことではありませんが、大名の奥方というお立場では、いかにも慎みのないお振る舞いです。このたび殿は百日の御暇で壬生に赴かれ、まもなく参勤で戻られます。ほかの大名におかれては、一年御暇の方々でさえ別れを惜しまず、またの逢瀬を気丈に待っておられます。奥方様も、しっかり気を取り直してくださいませんと…」
と意見した。
 さらに『源氏物語』で光源氏が須磨に三年篭居したとき、都に残された紫の上の節操のほどを挙げ、殿の帰府まで品行正しく内を守ることが大切だと、重ねて諫めた。
 しかし奥方の恋情はただごとでなく、
「殿様ぁ、殿様ぁ」
と大声で呼ばわって座敷をのたうちまわり、ついには焦がれ死にしてしまった。まことに、夫の帰りを待ち続けた妻が石になった「望夫石」の伝説、恋人との別れを悲しんで石になった「松浦佐用姫」の伝説とひとしく、女の恋心は切なくも恐ろしい。
 伊賀守もこのことを聞いて、心底かわいそうに思ったか、あとを懇ろに弔った。その後は正室を娶らず、寝間の伽として妾を置くことにした。

 芝口兼房町というところに、ある町人の娘で、ずいぶん美形の女がいて、虎ノ門の外伏見町みなと屋弥七という奉公人周旋屋に、
「鳥居様に妾奉公の御用があるとうかがいました。鳥居様ならば、支度金は要りません。給金も要りません。どうか御奉公申し上げたく存じます」
と頼み込んだ。
 この女は、伊賀守の美男ぶりにあくまで恋慕して、こんなことを申し出たのだった。
 みなと屋弥七が鳥居家に、この話を持っていったところ、
「物好きな、変わった女だ。一度会ってみよう」
ということになった。面接すると、礼儀作法もわきまえた器量よしだったので、相応の給金で妾として抱えた。
 伊賀守はその妾を寵愛したが、いっこうに懐妊の兆しがない。継嗣が欲しいため、さらに別の妾を抱えることになった。

 やがて、お吟という女中が男子を産んだ。
 初めの妾は、子をなしたお吟を甚だ妬ましく思い、大いに胸を焦がしたが、お吟は着々と家中の尊敬を集め、御部屋様と呼ばれ、伊賀守の寵愛もひとしおだった。
 いよいよ腹立ち、怨めしく思った初めの妾は、あるとき、病が起こったからと針医師 菅原徳庵を呼んで、療治を頼んだ。
 徳庵は次の間に脇差を置いて、療治しようと部屋に入った。すると妾は、小用に行くからと次の間へ出て、徳庵の脇差を掴み、お吟のところへ向かった。
 お吟は髪を結う途中で、手に櫛を持って俯き気味で鏡に向かい、侍女が傍らで手伝っていた。そこを後ろから声をかけて、
「妬ましや。日ごろの恨み、思い知れ」
と切りつけた。
 わっ! と叫んで侍女は逃げ去り、お吟はあっけなく一刀のもとに命を落とした。かの妾は刀を取り直し、おのれの喉笛を掻き切って果てた。
 なんともひどい事件だが、これもひとえに伊賀守が美男であるゆえに起こったことで、かつての正室もこの妾も、ともに恋路の闇に迷うはかない身の上だったと言える。

 伊賀守はその後、女にすっかり懲りて、妾も抱えず、もっぱら政務に打ち込むようになった。
 これは、誰知らぬ人もない話である。
あやしい古典文学 No.1566