『宇治拾遺物語』巻第四「妹背嶋の事」より

妹背島

 土佐国幡多郡に、舟で行く他郷に田を持っている農民がいた。
 自分の住む土地で苗を育て、田植えの頃になると、苗を舟に積み、田植え人夫のための食物をはじめ、鍋・釜・鋤・鍬なども積み込んで、田のある場所へと向かった。
 十一二歳くらいの、男子・女子の二人の子も連れて行った。舟が目的地に着くと、父母は兄妹を見張りとして残して、人夫を雇うためにいったん上陸した。
 短い間のことだからと、舟を少し浜に引き上げただけで繋がずにおいたのがいけなかった。
 兄妹は舟底で寝入ってしまい、潮が満ちて浮かんだ舟は、急な突風に吹かれて浜を離れると、引き潮に乗って遥か沖合に出た。
 沖では風がたいそう強く、舟はまるで帆を上げたように走っていく。二人が目を覚ましたときには、陸地の見えない広々とした海の上だった。泣き惑ってもどうしようもない。舟は何処へともなく、ただ風に吹かれて行った。
 父母が人を雇い集めて後に戻ってみると、舟がどこにもない。風を避けてどこかに隠したのかと、大声で子供たちを呼んだが、応える声はなかった。
 その後、あちらの浜こちらの岸と捜し求めたが、舟も子供も見つからず、どうしようもなくて遂にあきらめた。

 いっぽう、兄妹を乗せた舟は、はるか沖の、とある島に吹き寄せられた。
 二人は泣く泣く岸に下りて舟を繋ぎ、あたりを見回したが、まったく人の住む気配がない。しかし帰るべき方向さえ分からず、あてもなく海岸を歩きまわった。
「帰る手だてはないけれど、だからといって命を捨てるわけにもいかないわ。しばらくの間は、舟にある食物を少しずつ食べて生きられる。でも、それが尽きたら命はない。そうならないよう、さあ、この苗を枯れぬうちに植えて育てましょう」
と妹が言い、兄も、
「ああ、そうだな」
と同意して、水の流れがあって田を作れる場所を見つけ、舟に積んでいた鍬・鋤などで耕し、木を伐って小屋を建てて住んだ。
 実のなる木が生い茂っていたので、その実を取って食べて日々を暮らすうち、秋になった。

 これが二人の、定められた運命だったのだろうか。
 田の稲はよく実った。本土の田と比べてもことのほか豊作で、それを刈って蓄えたりして、やがて自然に二人は夫婦になった。
 夫婦の間に、男の子・女の子がたくさん生まれた。それがまた夫婦になり、その子がまた夫婦になった。大きな島だったので、田畑も多く作ることができた。
 このごろは、最初の兄妹の子孫が、島に余るばかりになっているらしい。「妹背島」といって、土佐国の南の沖にあると、人が語った。
あやしい古典文学 No.1568