津村淙庵『譚海』巻之五より

鯛が怒る

 駿河の「興津鯛」というのは、興津で獲れる鯛の総称であるばかりではない。「興津鯛」という名で呼ばれる一匹の大魚が実在する。

 薩堆峠(さったとうげ)の上の山に地蔵堂がある。その堂からさらに二三百メートル上った頂に燈明堂がある。船舶の目印に火を灯す所だ。
 この山は海岸からまっすぐに切り立った一個の岩石で、麓は波に浸っている。波に浸った箇所は幅一〜一・五メートルばかり縦に裂けており、その内側は洞で、広さは如何ほどとも知れない。鮑がよく採れるので、常に海女が通う所だ。
 その海女の話によれば、石の裂け目は南を向いているので、覗くと光を受けた内部がよく見える。そこには一匹の巨大な鯛が棲んでいて、人が覗くのに気づくと、鰭を振り頭をもたげて大いに怒る。そのさまはたいそう恐ろしいという。
 水に浸っているから体の全体は見えないが、どれほど大きいか想像がつかないほどだ。この鯛は、はじめ岩の裂け目から入って、洞の中で成長し過ぎて出られなくなり、そのまま年月を経たものであろう。
 これを「興津鯛」と呼びならわしてきたのである。
あやしい古典文学 No.1574