阿部正信『駿国雑志』巻之二十四下「祖益化牛」より

でし牛

 駿河国安倍郡牛妻村の奥、行翁山からさらに分け入った竜爪山の西南西に、麓平山というところがある。まさに深山であって、人里から遠く離れている。
 そこに庵室を結んで閑居する僧がいて、道白と号した。

 あるときから、道白の庵に一頭の牛がやって来るようになった。牛は毎朝来て日暮れまでとどまり、いっこうに姿を消す気配がなかった。
 道白がふと思いついて、牛の角に結び文をつけて駿府の町に買い物に行かせたところ、まるで人を使いにやったようにみごとに用を果たした。すなわち、駿府の店の人は文を見て、その品物を売り、牛の背に括りつけて帰したのだった。
 牛はそのようにして道白に仕え、幾年も過ごした。

 これはどういうことかというと、かつて道白の弟子に祖益という僧がいた。
 祖益はある日、托鉢して国主今川家の館に入り、一人の美女を見た。たちまち恋慕の情を起こしたが、どうにもならず、悶々としてついに想い死にしてしまった。
 その美女は田野という村の生まれで、やがて故郷に帰った。しかるに、かの牛は毎夜、女の家の門前に来て臥し、昼は道白に仕えていたのだった。
 これにより、田野は名を改めて牛妻村と言うようになった。

 道白笑山宗拒蝌a尚は天文年間の人で、高徳にして明知の僧であった。後に有渡郡今泉村に一院を建立し、開山となった。補陀山楞厳院がそれである。
あやしい古典文学 No.1578