『諸家随筆集(さたなし草)』より

法華婆

 伯耆国の生まれで、長崎にも居たことがあるという五十歳ばかりの婆が、この八月に名古屋へ来て、法華に改宗するよう熱心に人々に勧めた。
 もとより婆は法華宗で、土で作った祖師日蓮の像を人々に拝ませた。その像は、参拝者に頷き、あるいは手招きしたという。

 婆は、飴屋町の町役人である理介という者の家に逗留していた。
 この理介と、御料理人の岩屋喜伝治、御勘定手代の青山吉兵衛の三人がとりわけ熱心に信仰し、世間の付き合いを一切やめた。喜伝治などは、自分の貸家の住人を、題目を唱える邪魔になるからと追い出し、ひたすら題目にかかりきった。
 やがて公儀に知れ、理介は自宅に押し込め、喜伝治・吉兵衛は御叱り、婆は追放となった。

 信者たちによれば、婆が最初に理介に与えた二升ばかりの米は、毎日使ってもいっこうに減らなかったそうだ。
 彼らは「信仰のために殺されても本望」と申し立て、まったく邪教の信者のようだった。
 理介は、その後も久しく押し込められていたとのことだ。
あやしい古典文学 No.1587