林義端『玉箒木』巻之二「蝦蟇妖怪」より

蝦蟇の管領

 細川右京大夫勝元は、将軍足利義政公の管領を務め、武蔵守も兼任し、富貴をきわめ権威を輝かした。当時の公家・武家の多くはその下風に付き従い、その命を重んじて敬った。
 それゆえに、財貨・珍宝は求めるまでもなく勝元のもとに集まり、繁栄は日ごといや増して、すべてにおいて心にかなわないことがなかった。

 そのころ、洛西の等持院の西に、徳大寺公有卿の別荘があった。ことのほか景勝の地なので、勝元が頼んで譲り受け、菩提所の寺とした。義天和尚を開祖とし、今の龍安寺がそれである。
 寺の方丈は、勝元の居宅の書院を移したものだ。そのため、造作が一風変わったものとなっている。
 天下の権勢を掌握していた勝元だったから、私的に大船を大明国に遣わし、書籍・画図・器財・絹帛の類の数々の珍物を取り寄せて秘蔵した。その船の帆柱は明の材木で造ったものだったが、龍安寺の普請のとき挽き割り、方丈の床板とした。幅五尺ばかり、まことに木目のたしかな唐木で、我が国の木の及ぶところではないという。
 方丈の前に築山をかまえ、樹木を植え、麓は大きな池である。勝元みずから指図して掘り開いた風情ゆたかな池で、水上では鴨・雁・鴛鴦などが満足げに群れ遊び、小島の松杉の影が波に移ろう。古人が「緑樹影沈んで、魚木に登る」と詠んだのも、こんな景色だろう。
 庭に置かれたさまざまな奇石のなかに、すぐれて大きな石が九つある。これも勝元がみずから配置を指示したもので、作意絶妙と言われる。
 勝元は、政務のいとまには常にこの寺に来た。方丈に座して池のある景色を眺め、酒宴を催した。
 とりわけ夏の暑熱のころには、しばしば池の周りを逍遥した。近習の者を退け、ただ一人ひそかに衣服を脱ぎ捨て赤裸になり、池水に飛び込んで、しばらくあちらにこちらにと遊泳した。やがて立ち上がると、そのまま方丈に入り、横になって寝入った。

 ある年の夏の終わりごろ、その辺りを徘徊する盗賊七八人が、この寺に忍び込んだ。
 ひそかに方丈の様子をうかがうに、人の一人も見えず、しんとしている。
「今日は管領殿も来ていない。寺僧も出かけたようだ。もっけの幸い、いざ、財貨を奪おうぞ」
 盗賊どもは池の岸を伝い行き、戸を破って、方丈に這い上がろうとした。
 ところが、思いもよらず座敷の真ん中に、大きさ一丈ばかりの蝦蟇(がま)がうずくまり、頭をもたげて目を剥いた。その目が研ぎ澄ました鏡のごとく光ると、盗賊どもは胆を潰し、腰を抜かして倒れ伏した。
 蝦蟇はたちまち、大将とおぼしい人の姿となって立ち上がった。傍らの刀を取り、
「汝らは何者だ。ここは立ち入れる場所ではないぞ」
と大いに怒った。
 盗賊どもは恐れおののき、わなわな震えた。
「ただの盗っ人でございます。物が欲しくて忍び込みました。お慈悲で、命ばかりはお助けください」
 一同が手を合わせてひれ伏すと、その人は笑って、床の間の金の香箱を投げやった。
「貧困に迫られて盗みを働く汝らが哀れゆえ、これを与える。たった今見たことは、けっして人に語るな。さっさと帰れ」
 盗賊どもは香箱を辞退して押し戻し、心遣いの礼を言ういとまもなく、後も見ずに逃げていった。

 はるかに年月を経て後、盗賊の中の一人が伊勢の北畠家に捕らわれて、この出来事を語ったという。
 そもそも蝦蟇は勝元の本身で、その本来の姿に戻っているときに、思いがけず乱入した盗賊どもに見つけられたのだろうか。それとも、龍安寺の背後の山には蛇谷・姥ヶ懐などという木深い悪所もあることだから、こうした妖しい生き物もいて、たまたま方丈に来たのであろうか。
あやしい古典文学 No.1598