加藤曳尾庵『我衣』巻十二より

川の怪物

 いま勤番で大坂にある石川七左衛門殿から知らせてきたという怪説を、渡辺崋山が筆者に語った。

 大坂近郊のなんとか村の神主が、近辺の川へ釣りに行った。日暮れになって帰ろうとしたときのことだ。
 何か異様なものが、水中から蠢き出た。日が落ちてよく見えないながら、顔面は人のようで、頭髪はもじゃもじゃ。そいつが神主を見てしきりに笑った。
 どうやら人語を語っているようだが、何を言うのか全然分からない。神主はそのものに向かって、
「おまえはどういう怪物か。言いたいことがあるなら、正体を明らかにせよ。今日はもはや暮れて、物の色も定かでない。明日またここに来るから、そのとき必ず出てこい」
と呼びかけて帰宅した。
 神主はこのことを誰にも語らず、翌日同じ場所へ行って、水面を眺めて待った。
 昼過ぎごろやっと、水面が蠢いて、出てくるものがあった。もじゃもじゃ頭を振り立てて、前の日同様に神主を見て笑った。まことに怪しげで、しばらく注視しているうちに、そのものは川から陸に這い上がり、道の傍らの水門の上に臥して眠り込んだ。
 あまりの不思議さに、神主は観察しようと近寄った。臭いがひどくて堪えがたいのを我慢しながら、できるだけ近づいてよくよく見るに、体つきは人に似ているが、全身に松の皮のごときものがびっしり付着している。顔面は人と変わるところがなく、十指もやはり人と同様だ。
 『こいつを捕らえて、連れ帰ったら面白かろう』と思って、その腕をしっかりつかむと、意外にも弱々しい。目を覚まして逃げようとするのを引きずって、家まで帰った。
 近隣の者どもが群れて見物したが、何ものかを知っている者はいなかった。中に山師も混じっていて、「二十両で買いたい」などと言った。
 食物を与えてみたら、何でも食った。そのうち、腕に付いた松の皮のようなものが、ふわふわと剥がれ落ちたりした。
「この皮を剥がしてみよう」
ということになって剥がしにかかると、水の乾くに従って剥がれ落ちて、その下は人間の肌に違いなかった。驚いて全身にわたって剥がしてみると、完全な人間の姿が現れたから大騒ぎになった。いったい何者なのか、皆わけが分からず当惑するばかりだった。
 このことを近辺二三里に告げ知らせたところ、ある人が言った。
「以前、近村に住んでいた若い百姓が、ある遊女に惚れ込み、ついに娶って夫婦となった。ところが、男はまもなく死んでしまった。女は嘆きに堪えず、『一緒に死ぬ』と泣き叫んだが、周囲の者がようよう宥め、日数が経ってからほかの男を婿に迎えて、家を立てさせた。しかし不幸せなことに、その婿もすぐに死に、それから女は狂乱して、山となく里となく日夜狂い歩いた。汚れたものを厭わず身にまとい、腐った物を平気で食うなど、忌まわしいことかぎりなく、あちこちの家に立ち寄っては追い出され、やがてもっぱら山に住んだ。二三カ月に一度ほど里へ出てくることもあったが、山では食物が乏しくて、川に食うものを求めたのだろうか。ついには水中に自在に出入りすることを覚えて、水底に住みついたのか、見かけなくなっておよそ十三年ほどになる」
「ということは、この怪物はまぎれもなくその女だ。いや、笑うしかないな」
 人々はほっとして、女のもじゃもじゃ頭を剃り上げ、衣類なども与えて身づくろいさせた。
 怪物だった女は、急ごしらえの尼の姿になって、再び人の世に立ち帰った。
あやしい古典文学 No.1616