津村淙庵『譚海』巻之九より

十万坪の狐

 江戸の埋め立て地である十万坪や六万坪は、海水が混じり込む川が多く、秋は日ごとに海から魚が夥しく上ってくるため、釣り人が絶えず集まる場所である。

 知り合い同士、また釣り仲間で日がな一日釣り糸を垂れて過ごし、数多の魚を釣って、「もう十分だ」と舟に乗って帰路につく。
 ところが、舟が橋の下を過ぎるとき、橋上に野郎が一人立っていて、舟の中へ小便をしようとする。怒って舟を岸に着け、とっ捕まえようと陸に上がって見回すが、野郎の姿は見えない。
 仕方がないから舟に戻って、次の橋の下を過ぎようとするとき、さっきの野郎がまた橋の上に立っている。「またあいつだ。おのれ」とばかり、舟を岸に着けて追おうとすると、またまた姿が見えない。
 不審な思いで舟に引き返すと、魚籠の中の魚が残らず失せている。さては狐が魚を盗ろうとして謀ったのかと気づいて、みな驚き呆れることになる。

 そもそも十万坪のあたりは、野原がむやみにだだっ広く、常に人が狐に迷わされる所だ。釣り人のおおかたは、魚を狐に盗られてしまうという。
 ある人のいわく、「釣った魚に唾を吐きかけておくと、狐に盗られることがない」と。
あやしい古典文学 No.1622