中村満重『続向燈吐話』巻之一「木曾山中妖の事」より

木曽山中の妖

 尾張藩の家中に、生来殺生を好む侍がいた。
 獲物を得て腹を満たそうというのではない。ただ狩ることが他の何ものにもかえがたく面白くて、勤仕が休みの日は近くの山野で朝から晩まで狩り暮らし、猪や鹿を殺してはその辺りの百姓に呉れてやり、小鳥を獲っては幼い子供たちに与えた。獲物をむやみに殺したり獲ったりすること自体が楽しかったのである。
 六十有余にして職を退くと、嫡子の家督相続もかなった。今後は隠居の名にふさわしく、心を養いのんびりと暮らすべきであるのに、老人は以前に増して殺生を好み、我が家には寝に帰るだけで、終日山野や水辺で狩り暮らして、若者のごとく走りまわり暴れまわった。

 あるとき、一族の者が御用を仰せつけられて、信州木曽山の領地へ下ることになった。
 老人は大いに喜び、「我はいまだ木曾山中を見たことがない。よい機会ゆえ…」と、同行を願い出て許された。
 老人は従者三人を連れて、身軽ないでたちで御用の一行に加わった。道すがら猿を撃ち、小鳥を獲って興じつつ行くうち、木曾の藩領に入った。
 百姓の家を宿として、従者に鉄砲・弓・竹槍の類を持たせ、毎日山中に入って鳥獣を狩ると、尾張とは大違いで、獲物はおびただしくあった。老人は宝の山に出会ったように思い、殺生の罪も報いも忘れ果てて、なお山深く入ろうと勇み立った。
 ところがある日のこと、打って変わって一つの獲物も得られなかった。
 すっかり不機嫌になって、むやみに山路を分け入ると、兎が一匹いた。鉄砲を撃ちかけたが、当たらなかった。山の斜面を走り登り、険しい崖の上を右に逃げるの見て、息の続く限り走って追ったが、いつしか見失った。
 ふと気づけば、日は西に沈みかかり、帰る方角も分からない。二三町行き来しているうち、次第に暗くなって道も見えない。
 茫然として岩の隙間に腰かけ、主従とも途方にくれるなか、若党が口を開いた。
「今朝出発してからの足の疲れを考えるに、およそ七八里も来たはず。これから暗夜に山中の遠路を戻ろうとして迷うより、風をよけられるところに泊まって、明朝帰るほうがよいでしょう。さっき見たところでは、この山の中腹に洞穴がありました。入口は狭いが中は広そうで、もってこいの宿りであります」
 老人は、
「それは幸い。その洞穴に泊り、ついでに中で寝ている鳥や猪を狙えば、またとない慰みである」
と言って、中間二人に下知して檜の枝を切らせ、その葉を洞の中に敷かせた。木の葉を集めて火縄の火を吹きつけ火を焚くとともに、昼飯の焼き飯の残りなどを広げて食し、飢えをしのいだ。
 主従四人が火を取り囲んで座るうち、夜の更けるにつれて次第に物寂しく、洞の奥から吹いてくる冷ややかな風が身に沁みわたった。
「きっとこの奥は、ここより広いのだろう。どんな様子か、火で照らしてみよ」
 灯火を振り動かしてその辺りを見るに、大きさ十一二文ばかりの足袋が片方、穴の口にある。
「これは不思議だ。妖物が棲んでいるのか」
「いや、化け物が足袋を履くのも変ですな」
「もしかして、人を攫ってきたとき、その人の足袋が脱げたのではないでしょうか」
 いろいろ言い合っているとき、奧のほうから何やら物音がした。耳を澄ますと、火を焚き、水をこぼして捨てる音などで、たしかに人の住居があると思われた。
 鉄砲の火蓋を取り、火縄をさしつけ、弓・竹槍をかまえ、号令一つで攻撃できるよう用意してから、老人は奥へ向かって呼ばわった。
「人か妖怪か知らぬが、いさぎよく出てこい。隠れて敵対するつもりなら、ただちに目にもの見せてくれよう」
 すると奧より応えて、
「せかしなさるな。しばらく待たれよ。今そちらへ出て参る」
と言うのは、たしかに人の声だった。
 四人が「まだ油断ならない」と身構えて待つところに、身の丈六尺ばかりの大男が、尻をはしょって山刀を落とし差しに帯し、洞の口までのさのさと現れ出て、老人の前に膝を折り、手をついた。
「見つかってしまったからには、包み隠しても仕方ありません。わっしは、この洞に十年余も住まいする盗賊でござる。あるときふと、盗み取った物をこの場所へ持ってきて隠し置いて以来、『人がかつて知らぬ隠れ里とは、こんな所を言うのだろう』と嬉しくなり、一日二日足を止めるつもりが、いつとなくまことの棲み処となりました。昼は里へ出て侵し奪うことを業とし、夜は帰ってここに休み、人に知られず安楽に暮らしてまいりましたが、もう十分に満足しましたゆえ、今一命をお助けくださるなら、ここを立ち退いて、再び足を踏み入れぬ所存……」
 口ではへりくだっているものの、その顔つきは、いざとなれば斬り合いも辞さぬ覚悟を決めているらしかった。
 老人はうなづき、
「神妙な申し方、感じ入った。そのように名乗り出たからには、けっして汝の一命を取ることはしない。しかし、我は隠居の身とはいえ、倅がまさしく尾張公の家来である。その禄を食みながら、ご領地に徘徊する盗賊の棲み処を知りつつ注進しないなら、まさに不忠というものだ。宿所に帰ったら、同道の士に語って、汝を召し取らせるだろう。しかし、それまでに三日の猶予を与える。その間に資財や雑具を運び出して、いずこへでも立ち去るがよい。これが汝への、我が寸志である」
と言い聞かせた。
「ご厚恩ありがたく、お礼の言葉もありません」
 盗賊は涙を流して喜び、おのれが常に住む洞の奥へ四人を招待した。燈火をつけ、食物を拵え、膳をすすめた。
 その場所を見回すに、普通の住居と変わらず畳・板戸の類はあったが、天井から水がしたたり落ちて、雨が降るかのようだった。
「湿気が強い所ですが、夜はかまどで火を焚き、その前に横になってしのぐのでござる」
と、盗賊は語った。
 こうして、思いがけない者に出会って親しくなり、炉を取り巻いて坐って、よもやまの話に時を忘れたのだった。

 やがて老人が、
「深山幽谷のうちには、必ず陰気が凝り固まって、妖怪の沙汰があると伝え聞く。年久しくこの山中に住んで、何か怪しいことはなかったか」
と尋ねたところ、盗賊は声をひそめて語り始めた。
「じつは、ここに不思議なことがあるのでござる。今後もずっとこの場所に住むのであれば口外しにくいことながら、一両日のうちに立ち去る身ゆえ、隠さず物語りましょう。
 わっしは初めてこの洞に入ったときから今日まで、ここより奥は行ったことがありません。そこには二十歳ばかりの美婦人がずっと住んでおって、昼はわっしの前を通り過ぎて洞の口から出ていきます。夜更けに帰ってくるときは、自然に灯火が消えてしまい、姿を見ることがありません。しかしながら、帰って奥へ入るや、いつも叫び悲しむ声が聞こえます。さだめし人や獣を獲ってきて、殺して食うのでござろう。
 わっしは朝夕の食事のとき、最初に食を膳に盛って、奥の前に供えます。後で見ると、一粒も残っておりません。はじめは、あの者が前を通るとき、肝魂も消え失せるほど恐れたものでござるが、今は馴れたからか、その恐怖は止みました」
 これを聞いて、若党と中間二人は震え上がったが、老人はしばらく考え、盗賊に向かって、
「蝋燭はないか」
と尋ねた。
「闇穴の内ですから、そうしたものは蓄えております」
 盗賊は数十本の蝋燭を取り出して、前に置いた。
「では、これを灯して、妖女が住居する所へ案内せよ」
 しかし、盗賊が尻込みした。
「何年も前から、『あの者に近づかない。敵対しない』と誓いを立てておりますゆえ、案内は御免こうむります」
 老人は笑った。
「そうか。では無理強いはしない。いや、年寄りが余計な腕力沙汰をなすようだが、老若にかかわらず武士たる者は、曲者の所在を知って聞き捨てたならば、『恐れて逃げ帰った』と人の誹りを受け、子孫の恥辱ともなるからな」
 そう言って、中間の一人に灯火を、若党には鉄砲を、もう一人の中間には竹槍を持たせ、老人自身は弓矢を携えて、奥の方へ踏み込んだ。
 ところが、二足・三足歩んだだけで、奧から風が激しく吹き出した。蝋燭がたちまち消えたので立ち戻り、洞の前の竹林から枯竹を伐って、大きな松明を拵えた。それに火をつけると、洞中が真昼のように明るく見え渡った。
 そこで、再び奥へ向かって、用心怠りなく武器を構え、身を寄せ合って進んだ。
 奥の行き止まりまでおよそ十二三間もあるらしく、そのあたりの隅に物影があったので、松明をかざしてよくよく見ると、長い顔を真っ白に化粧して白衣を着た女が蹲っていた。
 老人はすかさず若党に目配せし、若党はただちに二つ玉を込めた鉄砲を向けて、女の体のど真ん中を狙って撃った。
 そのとき女は蝶のごとく軽々と跳び上がり、瞬時に駆け来って、若党の首筋を長い手で掴んだ。そこまでは確かに見えたが、その後はどのように去ったのか、若党もろとも霧か霞のごとく消え失せてしまった。
「今までここにいたものを……。どこだ、どこへ行った」
と慌て騒いで捜したが、どこにもいない。あまりの不思議さに天井を見上げたら、径八寸あまりの丸い穴があった。竹槍で突いたところ、深い穴で、突き当たるところがなかった。
 夜が明けてから、洞の上の山に登ってみた。そこには径五六尺の穴があって、下に通っているらしかった。
「この穴を通って遁れたにちがいない。可哀そうに、若党はあの者の餌食になったのだろう」
 悲しんでも、今さらしかたがない。残った三人は、盗賊に案内させて、ようようその日の午後二時ごろ、里に出て、宿所に帰り着いた。

 盗賊との約束通り三日待ってから、同行の一族の侍に、しかじかの事があったと語った。
 その侍は、聞いた以上捨て置くことはできないと、足軽四五人、百姓数十人を連れてかの洞の入口から中に踏み込み、捜索を行ったが、盗賊はとうに逃げ失せ、雑具類まですべて取り去って、塵一つ残っていなかった。
 妖女の姿も、奥まで徹底的に捜したけれど見つからず、ただ白骨がおびただしく積み置かれてあるばかりだった。
 この妖女こそ、世に言う山姥の類であろう。
あやしい古典文学 No.1626