生々山人『奇説雑談』巻之三「桂の方金龍の法を修して肉身を殺事」より

金龍の法

 東国のある大名が、齢四十にしていまだ子がないことを嘆き、都から容姿の美しい女を多数呼び寄せて側女(そばめ)にした。
 しかし、いっこうに懐妊の気配がないので、奥方の甥を養子として世継ぎに定め、しだいに政事も任せるようになった。
 しかるに、大勢の側女のひとりで桂(かつら)という女は、とりわけ美人である上に生まれつき利発だったので大殿の寵愛が深く、昼夜そば近くを離れず仕えていたが、とうとう懐妊し、月満ちて男子を生んだ。
 大殿は齢六十近くではじめて子をもうけたから、その喜びは尋常でない。めでたさに浮かれて、ただちに館をしつらえて桂母子を住まわせた。日夜、大殿のただならぬ寵愛と、世話する家臣の奔走が繰り広げられた。若殿をはじめ奥方一家じゅうにいたるまで、「桂の方」と呼んで敬いかしづくさまは、まさに栄華の時を迎えたというべきであった。
 この桂という女は、山城国の淀あたりの生い立ちで、父母の名も定かでないほどの卑しい者だったが、天性の色香に加えて才知があり、声音から立ち居振る舞いまで、いかにも高貴な女性に見えた。その実、心は邪悪で嫉妬深く、粗野な振る舞いが多いのを、巧みにごまかし、取り繕っていたのだった。
 権威を得た桂は、おりにふれて悪い本性を現すようになった。
 若殿と奥方のことをそれとなく讒言したが、温厚な大殿はさほど気に留めなかった。しかしあるとき、大殿の来室を見計らって、髪を乱し、衣を改めず、憂いの表情で、少し顔をそむけるようにして対座した。
 大殿が不審に思って、
「どうして、そんな物思わしげに見るのだ」
と尋ねると、桂は妖艶な相貌に涙を流しながら言った。
「卑しい身のわたくしが、これほど殿様の情けにあずかり、かたじけなくも若君さえ授かったことは、前世よりの契りがあったゆえと、片時も忘れることなく有難く思っております。ところが、どういうわけか殿様の御寵愛を受ける身を妬んで、若君の面差が殿様に似ていないなどと、奥向きで密かに噂しているようです。もしや殿様の耳にも入ってはおりませんか。わたくしに何の逆心があって、今の深く大きい御恩に背き、他人の胤を偽ったりするでしょうか。ことさら申さずとも、殿様にはお分かりのはず。そんな根も葉もないことが取り沙汰されるのは、わたくしを妬む人がいて、若君のことを疑い見る僻み心で言いふらすからでしょう。
 そのようにして殿様がわたくしと若君を遠ざけるよう謀っているのだとは思いますが、『衆口金をとかす』と申しますから、若君は殿の御胤ではないなどという、殿様の御恥に及ぶことを語られて、どうして聞き流せましょうか。今わたくしにお暇をいただけますならば、若君もろとも自害して、殿様の恥辱を晴らしてみせますものを…」
 言い終わらぬうちに、桂は絶え入らんばかりに泣き伏した。
 いかにも知があり勇であった大殿が、この妖言にとらわれてしまったのは、残念なことだった。いたって温厚な人柄であったのに、心の迷いのままに大いに怒り、
「奥と倅の妬みから出たものに違いない。彼らを疎んじたことはないのに、彼らは猜疑心からそう思い込んだ。そんな邪な心の者を、我が継嗣とすることはできない」
と、重臣の評議にもかけず、若殿を家老某に預けて謹慎させ、奥方のもとへは以後まったく立ち入らなくなった。さらに、
「桂母子の身の上につき、何事であれ噂する者は、きつく処罰する」
などと厳しく言い渡したので、家中は下々まで恐れ入って、ひたすら桂の方に追従し、気に入られようと立ち回った。
 桂の方の勢いは、目に見えて盛んになった。いっぽう、奥方のほうは立ち寄る者もいなくなり、住まいが寂しく荒れ果てていくばかりだった。心の底で忠義を思う者たちは、歯を食いしばり声を呑んで、桂の姦計を憎みつつ、無念の月日を過ごした。
 こうして若殿と奥方を遠ざけてから、桂は腹心の腰元に、
「大殿をたばかって、あの二人にこれほどの憂き目を見せたのは、じつにいい気分だ。なお一計を用いて、命をも奪ってやりたいものだ」
と、心地よげに笑って言った。その面色は、なんとなく身の毛のよだつばかりに凄まじく見え、仏道にいう「内心の夜叉が現れる」とは、こういうさまのたとえかと思われた。

 やがて大殿は、桂の妖色に溺れた末、ついに病の床につき、日ごとに重患となっていった。
 桂はつらつら思った。
「大殿の寵愛を得て、諸人の敬いを受けてはいるものの、今や大殿は重病で、先は長くなさそうだ。亡くなってしまったら、後ろ盾を失ったところにつけこまれ、若殿をはじめ古参の家臣らも、かねてよりの我が謀計を詮索し、疑いを募らせるだろう。若君は幼いうえ、面差しが大殿に似ていないなどと噂されている。近臣某との情事が、思いがけず洩れ聞こえてのことかもしれない。ああ、この危機をどう乗り切ればいいのだろう」
 思い煩って日を送るなか、ある明け方にふと鏡を手にして我が顔を映すに、これはどうしたことか、かつての艶麗さはたちまち失せて、あさましいまでに皺が寄り、肌は青白くくすんでいた。
 我ながら驚いて、しばらくは言葉も出ず、ただ溜息をついていた。
「これまで大殿の目を盗んで諸臣に親しみ、権勢を他に譲らないよう謀ってきた。それは我が容色を力として衆をなびかせようとの考えであったが、これほどまでに衰えてしまっては、大殿に先立たれたとき、何をもって諸臣を引き留めておけようか。これでは、日ごろより我を怨む者どもがこぞって若殿を助け、今まで謀ったことがみな露見して、若君もろともこの館から放逐されてしまう」
と、あるいは怒り、あるいは嘆いたが、ついには腹を決めた。
「たとえ命に限りはあろうと、容色においては変わらず衰えないことこそ、女の願いだ。このようにあさましくなりゆくのでは、若殿・奥方を亡きものにするなど、叶いようもない。よし、いかなる荒行をも修して神仏の力を頼み、再び若々しい顔色を取り戻して、今の心中の鬱憤を晴らしてみせよう」
 そして、日ごろ帰依する日栄という僧を招き、声をひそめて、
「我はかねてより法華経を信じ、御僧の導きによって宗旨の奥義を承りました。それによれば、荒行を修して祈るとき一つの願いが叶えられる密法があるとのこと。それがまことなら、なにとぞその法をお授け下さい。いかなる難行でも厭わず、必ず勤めます」
と、いかにも切々と頼んだ。
 そう言われると、僧も断りきれなかった。
「では、願いの中身をおっしゃってください。確かに法をお授けしましょう」
 桂は涙を流しながら、
「さぞかしあさましく罪深いことと思われましょう。我が願いは、来世のことではありません。今の我が身が、容色も気力も永く衰えたり疲れたりせず、妬みと憎しみの炎を燃え立たせながら、先々までも心のままに栄耀を極めることができるなら、来世にいかなる苦しみを受けようとも、後悔はありません」
と、さも恐ろしげに声を震わせて語った。
 そのさまに日栄もたじろいだか、一言の教えも説かず、ただちに本題に入った。
「ううむ…、それではとにかく、お授けしますぞ。おっしゃるような願いを叶えるには、『金龍の法』といって、願主が七日にわたり火食を断って冷水に浴し、関東八ヶ所の霊山に登って密法を行う。最後に富士山において法が成就すると、金龍が出現するので、これを祀るのですが、それには、艶やかに脂ののった女の陰部に近い生肉と、甕にたたえた美酒を供物に捧げるのです。金龍は感動して、願いを成就せしめるでしょう。密法の奇特、疑うべからず。
 しかしながら、婦人の身で百里の山川を越え、厳しい荒行を修するのははなはだ困難。そこで今、お方様の肉を切って、愚僧に託してください。肉を携えて諸高山を巡り、法を成就せしめて後、今度は龍の生肉を取って持ち帰ります。その肉を傷口に収め戻せば、衰え疲れた心力が復して、いかなる大望であれ、もはや叶えられないことはありません」
 元来が剛毅な生まれつきの桂は、少しも恐れなかった。大いに喜び、厚く謝して、やおら内股の肉一寸ばかりを切ると、日栄に与えて懇ろに頼んだ。

 日栄は肉を持って諸山を巡り、行法を修した。とりわけ甲斐国身延七面山は霧深く、すぐ目の先も見分けがたいのを、心気を澄まし呪文を唱えつつ奥深く入った。遂には富士の絶頂に登り、山中を残らず探って、谷底の洞穴を見つけた。
 その前で行法を修することニ十一日にして呪符を投じると、たちまちにして天地震動して雲が起こり、山谷は霧に閉ざさて闇夜のようになった。降りしきる雨と鳴り走る雷電に乗じて、金龍が、眼を奪い魂を消さんばかりに光り輝いて現れ出た。
 日栄がただちに桂の肉を投じ、美酒を与えて、なおも厳かに行法を修すると、金龍は肉を食らい、酒を呑んで、ほろ酔いのごとくうっとりと、頭を垂れて近寄ってきた。
 そこをすかさず、戒刀を振るって龍の肉一寸ばかりを切り取り、呪文を唱え経文を念ずれば、龍の姿はたちまち消え、雲は晴れ、雨はおさまった。
 日栄は帰りを急いで、その日のうちに桂のもとにいたった。龍の肉をかの内股の傷口に押し当てると、不思議なことにそのまま癒着して、少しの痕も残らなかった。

 これ以後、桂の衰えていた顔色は元に戻り、艶麗な姿は以前にもまさった。
 気力もますます旺盛になって、大酒を好み、淫欲にふけった。大殿の病中を幸いとして、近臣の美少年を寝室に呼び込み、言語に絶する乱行を繰り広げた。
 大殿の容態は日ごとに危うくなり、ついに亡くなった。
 桂は、遺言と称して若殿を退け、幼い我が子に家督を継がせて、日ごろの願いそのままに、みずから政治を行った。誰はばかることなく荒淫・乱酒して、おのれの心にかなう者は分不相応に取り立てた。逆らう者は譜代の忠臣でも強引に退け、無実の罪を着せるなどした。
 人々の怨嗟がつのり、国の先行きも危ぶまれるようになって、老臣らは深く嘆き、若殿とともに桂を排斥しようと苦心した。しかし、先代の寵愛と遺言はいかにも重く、容易に事を起こせない。
 そうするうちにも桂は日々増長し、このごろは近臣に命じて罪のない人々を殺させては、その血を啜った。こうなると、今まで色香に惹かれていた者たちも怖じ恐れ、病気と称して近寄らない。すると今度は自らの手で侍女を手討ちにして、ますます血を吸い、肉を食らった。
 もはや男女を問わず恐れおののき、一人も近くで仕える者がなく、皆々逃げ去ったので、広大な館の内にいるのは、桂母子ただ二人だけになった。

 もはやこれ以上放置できない。家臣一同心を合わせ、桂を捕らえて誅罰し、多くの人々の恨みを晴らすべく、武勇にすぐれた者たちを選んで館に向かわせた。
 捕り手と対面するも、桂は少しも動ぜず、艶然と微笑み、優しげな声を作って、
「先の大殿の遺命を承って若君を守護する我に、なにゆえ汝らは無礼をはたらこうとするのか。近寄らば目にもの見せようぞ」
 言うやいなや、はったと睨んだ顔色は朱に変じて、眼光たちまち周囲を圧した。さすがの勇者たちも目が眩み、身が竦んで進むことができない。一人が気力を振り絞って近寄り、桂の手を掴んだが、その熱いこと烈火のごとく、思わず手を放して後じさりした。
 桂は怒って、
「憎き者どもの狼藉、許さぬ。思い知らせてやる」
と大声を発し、激しく息を吐いた。その息は堪えがたく臭く、室内に充満して、捕り手はみな気絶して倒れ伏した。蘇生して立ち向かうも、また悪臭をくらって倒れた。何度繰り返しても同じことだった。
 これでは埒が明かない。家臣が打ち寄り相談しているとき、儒者の何某が一つの謀計を進言した。
 儒者の言葉に従って、多くの燕を集め、血を絞って盤にたたえ、栴檀(せんだん)の実を加えて、桂の居所の近くに据えた。
 人々が物陰から窺っていると、桂は香りに惹かれたのか奥から出てきて、盤に顔を寄せ、血を嘗めた。
 すると、どうしたことだろう……美しい顔が忽ち変じて、眦(まなじり)は裂け、口がくわっと拡がった。悪龍の相をあらわして館じゅうを叫び巡り、我が子を取って引き裂き喰らい、そのまま庭先の遣り水に飛び込んだ。
 人々が驚き騒ぐところに、ほどなく蛇形と変じた桂が現れ出て、水を蹴立てて塀を飛び越え、城外の大河に入った。
 大河で浮きつ沈みつするなか、にわかに天地震動し、篠突くがごとき大雨となり、轟き閃く雷電にまぎれて、悪龍の桂はついに去り失せた。
あやしい古典文学 No.1638