『十訓抄』第四より

阿衡の紛議

 昔、橘広相(たちばなのひろみ)という高名な学者がいた。
 広相は、昭宣公(しょうせんこう)藤原基経の上表文への勅答を作成した。すなわち、関白への就任を形式上いったん辞退した基経に対する、天皇の返答を書いたのである。
 その勅答の中に、
「阿衡(あこう)の任をもって、公の任となす」
とあった。
 広相はあくまで関白と同等の役として、中国の例を引いて阿衡と言ったのだが、儒学者の藤原佐世(ふじわらのすけよ)がこれを見て、昭宣公のもとに参上し、
「あなた様は、政治から退かれたのでしょうか。阿衡というのは位ばかりで、政治にかかわらない名誉職ですが……」
と言上した。
 昭宣公は、
「そんなことがあってたまるか」
と怒り、
「今は世に仕える身ではないらしいから、勝手させてもらう」
と、厩の馬どもを街路に放してしまった。たいそう大切に飼われていた馬が、京の町を走り回り、人を傷つけたりして大騒動になった。
 天皇はそれを聞いて大変驚き、勅答を改めた。それだけでなく、広相を罰すべしとの朝議がもたれ、
「勅答を作った広相は、阿衡という役名を用いて、天皇の本意にそむいた」
と結論づけられた。
 広相はこのことを苦に病んで、
「わしは死んだら犬になる。犬になって、佐世のやつを噛んぢゃる。噛み殺しちゃる……」
とうわごとを言いながら死んだ。

 ちょうど同じころ、藤原佐世の家のあたりをはじめ、大路に赤犬が数多く走り回って、「アコウ、アコウ……」と吠えては、人に噛みついた。世間が騒ぎ立て、人々は「阿衡喰い」と呼んで怖がった。
 これは、佐世にとっても外聞の悪いことだったのだろう。後に、死んだ広相に官位を贈ることになり、広相が「贈中納言」と呼ばれるようになったのも、この騒ぎのせいだと思われる。

 この「阿衡の紛議」は貞観年間のことで、菅原道真はまだ低い官位にあったが、一連の経緯をひどく残念がった。多くの学者が中国の書を引いて述べる説には与せず、広相の勅答を高く評価した。
 道真は昭宣公に、広相に落ち度がないことを詳しく説明した文書を送り、仁心をもって処罰を直ちに取り止めるよう勧めた。孤立無援だった広相は、それを聞いてたいそう喜んだという。
 死んで後、道真の夢に広相が現れて礼を言い、三つの金笏を与えた。道真は、
「三つの金笏は、我が三つの大臣の位に就くしるしだろう」
と言ったが、はたして、そのとおりになったのである。
あやしい古典文学 No.1640