宮川政運『宮川舎漫筆』巻之三「子日庵終焉奇事」より

俳諧師の終焉

 子日庵三我(ねのひあんさんが)という人は、旗本松田某の家来で、本名を平野なにがしといった。
 若いころから俳諧をたしなんで、謂浜庵蛙水(いひんあんあすい)の門に入り、やがて雅名を子日庵三我と名乗って、多数の門人を持った。齢六十に至っても甚だ健康で、これといった病気などなかった。
 嘉永四年八月十五日、三我は名月を眺めて、
「夜の明けは知らでしまひぬ今日の月」
と言い捨てて、横になった。
 家人は、月に大口を叩いての転寝かと思っていたが、あまりにいつまでも目覚めない。風邪をひいてはいけないと、息子が小夜着を掛けようとしたところ、なんということだろう、いつの間にか息が絶え、体が冷たくなっていた。さまざまに手当てを施したが、もうその甲斐もなかった。

 それにしても不思議なことであった。
 前日の十四日、三我は同門の師弟の家を残らず訪ねてまわった。そのうちの松崎某宅へは、奥方の病気見舞いだと葡萄一籠を手土産に持参して、しばらく話をして帰った。しかし、後に息子が話すことには、十四日、三我は終日自宅にあって門外に出ず、機嫌よく過ごしていたそうだ。
 さらに不思議中の不思議というべきは、同じ十四日に、出家を一人同道して深川霊巌寺の棺桶屋に現れ、棺桶を頼んだことだ。
「寸法などは、明日にも使いをよこして知らせよう」
と約束して帰ったという。
 十六日の朝、棺桶屋が来て、
「おととい御隠居様がお求めの棺桶ですが、昨日じゅうに寸法お決めくださるはずのところ、いまだ知らせが届きません。どうなっておりますか」
と言ったので、息子をはじめ皆々驚いた。驚きながらも、
「なにはともあれ、今すぐ入用の品にはちがいないから」
と、即決で注文を決めたとのことだ。

 自分の棺桶まで用意して臨終したところに、日ごろの周到な覚悟のほどが思われる。
 たいそう不思議であるとともに、尊い終焉ではあるまいか。
あやしい古典文学 No.1664