慙雪舎素及『怪談登志男』第五「妖怪浴温泉」より

妖怪の湯治

 江州の安土城は、天正四年二月、要害堅固の地に普請完成した城だ。
 その城内には、たびたび妖しいものが出る長屋があった。傍らに深い井戸があったので「井戸端の小屋」と呼ばれ、勤番の侍も、豪気の人でなければ住むことがなかった。
 天正七年の秋のこと。氏家武者之助という大剛の武士が、妖怪のことを聞いて、「そいつは面白い」とばかりに、自らその小屋を所望した。

 武者之助が小屋に住み始めてから二十日ばかりの間は何事もなかった。
 その後のある夜、便所へ行って戸を開け、中に入ってみると、誰か先客がいて、物も言わず動きもしない。普通の人なら恐れ怯むところだが、大胆な武者之助は、
「この便所を使うのは我以外にいない。外から来て入る人があるはずないゆえ、さだめし古狐殿の御遊興であろう。ここはひとつ、馳走して差し上げよう」
と呟いて、引き返して太刀を帯し、手燭をかざして、また便所の戸を開けて見ると、大牛が一頭、狭いところにしゃがみこんで、凄まじい眼光を放っていた。
 武者之助は手燭を投げ捨て、抜き打ちにたたみかけて斬りつけた。その太刀音を聞いて、台所に臥していた若党侍が火を灯して駆けつけたが、
「たいしたことではない。戻って休め」
と言いやって、便所の中を見ると、がらんどうで何もなかった。
 『確かに手ごたえがあったのに、血の痕もない。おかしいな』と思いながら、ゆっくりと用を足し、庭などを見回してから、寝室に入って寝た。
 その後、小屋には何の怪異も起こらなかった。

 武者之助の親友に、玉川某という侍がいた。
 玉川は、長年の持病を癒すべく、近江から摂津国有馬の温泉へ湯治に出かけ、かやの坊という宿に泊まった。
 湯につかっていたら、板壁一枚隣の湯船に人が来る音がした。節穴があったので覗くと、隣に入ってきたのは二人で、一方は山伏のような髪をした大男。もう一人も大きく逞しい法師で、仰々しい鉢巻を巻いていた。
 山伏頭が言う。
「おぬしはなにゆえ、そのような鉢巻をしているのだ」
 法師は答えて、
「いやそれが、しようもない所へ行って、大怪我してしまってな」
「誰かにやられたのか」
「江州安土の、氏家武者之助というやつだ。ほれ、このとおり」
 そう言って鉢巻を取ったのを見れば、額を真っ向から二か所斬られていた。
 やがて大男たちは、
「さてさて、危ないことじゃ」
などと言い合いながら出ていった。
 玉川は、『これは聞き捨てならない。日ごろ親しくする武者之助が、もしや往来で喧嘩でもしたか。心配だ』と思い、摂津の名所旧跡を見て回ろうという予定を取りやめて、急ぎ安土へ帰った。
 武者之助を訪ねるに、何の変わりもない。湯治で見た法師のことを語ると、武者之助は手を打って、便所の妖怪のことを語った。そのあと、
「それにしてもあの妖怪、そもそも何者なのか、不審が晴れたわけではない。しかし『君子は怪力乱神を語らず』という。これはこの場限りの話にしよう」
と、互いに口を閉じて、二度と語り合うことをしなかった。

 はるか時を経て、慶長の末に至り、長生した玉川某が東国に下って、昔をしのぶ物語として、ある剣術者に話したそうだ。
あやしい古典文学 No.1666