藤岡屋由蔵『藤岡屋日記』第五十八より

猫狩り屋敷

 堀田備中守の小川町の屋敷は、安政二年十月二日夜、地震により倒壊し、そのうえ近隣に火災が起こって類焼した。
 とりあえず渋谷下笄橋の下屋敷に立ち退いたが、同月九日、老中に再任されるとともに、西丸下の松平伊賀守・松平玄蕃守の屋敷を、役屋敷として下された。
 しかし、その屋敷も地震で大損壊していたため、ただちに修理に取りかかり、翌安政三年の二月十日過ぎに普請が終わって、十八日に引っ越した。

 ところで、この屋敷内には昔から秋葉神社があって、いつのころからか古猫が棲みついた。その猫をどうしたわけが有難がって、祠を建てて祀ったところ、周辺に沢山の猫が集まって暮らすようになり、もし人が危害を加えると手ひどい報復をくらって難儀するのだった。
 だから屋敷では、犬を入れてはならないなどと、代々言い伝えた。それでも猫は、折にふれて祟りをなすので、みな持て余してきた。
 それを知った堀田備中守は、猫どもに次のように申し渡した。
「このたび当屋敷を拝領するからには、今までどおりにはさせない。かの祠を寺へ引き移すゆえ、皆々それに付いて移れ。我らが他の屋敷に住み替えた節には、祠も棲み処も元どおりにしてやるが、今は出てゆけ。一匹でも残っていたら、猫狩りをして退治するから、そう思え。」

 猫どもは承服せず、その夜、暴れ騒いで仇をなしたので、翌日、中間たちの手で猫狩りが行われ、多数が打ち殺された。
 中間たちは、死んだ猫を吸い物にして、褒美の酒を飲みながら、「邪魔猫の吸い物、旨い旨い」と言って食った。
 残りの死骸は俵に入れ、領国の佐倉へ送った。中には尾の二つに裂けた猫もいたとのことだ。
あやしい古典文学 No.1680