伊丹椿園『翁草』巻之二「死後の忠節」より

助っ人三平

 昔、備前の一城主の家来に、諸葛主馬(もろくずしゅめ)という、代々剣術で名を得た家筋の武士がいた。
 主馬は六百石を給わり、家中の師範を勤めた。廉直な人柄で、うわべを偽り飾ることを嫌った。明け暮れ和漢の兵書をひもとき、城取り・陣立ての工夫に心を凝らすほか、少し儒書にも目を通すくらいで、他の遊芸を知らなかった。
 同じ家中に、村田清六という者があった。
 清六は心の曲がった悪賢い男で、人の善を妬んで悪を褒める狭量の者だったが、幼少のころから音曲・乱舞を好み、ことに鼓においては国で一番の名手と認められていた。
 城の若殿は暗愚で遊興を好み、武道をおろそかにして、遊芸にたけた家来を愛し引き立てたが、中でも清六は出世頭だった。昼夜お側にいて媚びへつらい、酒宴があれば鼓を打ち、舞って謡って興を添えたから、若殿は『一日も清六なしではいられない』と思うほどになった。そうなると諸士も自然と清六を敬い仕えて、若殿の前でよい家来に見えるよう振る舞った。
 しかし、忠義・廉直をもっぱらとする主馬は、『あのような奸悪の輩が若殿の側にいては、御家のためによくない。なんとかして御前から遠ざけないと…』と、思慮をめぐらしていた。

 あるとき主馬は、諸士を自宅に招いて兵書を講じ、その中で平盛久のことを語った。
「彼は平家譜代の士であったが、鎌倉方に捕らわれ、すでに斬られるべき命を、観音を一心に念じたことで助かった。そして頼朝に舞を望まれ、源氏を祝した唱歌を謡って舞ったという。平忠光・景清兄弟のように、身をやつして報復しようとするほどの忠勇がないのはともかく、我が命が助かった嬉しさに、主君の怨敵である源氏を祝して謡い舞うとはなにごとか。まったく武道・忠義を忘れた痴れ者のふるまいである。およそ士たる者は、文武を学ぶべきで、他の遊芸・雑技は知らなくてもよい。遊芸を好む士は、必ず武道に暗いものだ」
 これは特に含むところがあって語ったのではなかったが、村田清六も聴衆の中にいて、
「主馬は平生、若殿の寵愛を受ける我を妬んでいるように見えたが、はたして思ったとおりで、盛久にかこつけ、諸士の中で我が遊芸を嘲り、恥辱を与えた」
と邪推して大いに怒り、『よし、いずれ思い知らせてやる』と心中深く遺恨を抱いた。

 ほどなく大殿が隠居した。
 若殿は家督を継いでから、いよいよ遊興がはなはだしく、日々奢侈にふけるようになったので、忠義の家臣は嘆き、打ち寄って評議のうえ一通の諫書(かんしょ)を差し上げた。
 しかし若殿は、諫言を聞き入れるどころか、ことのほか激怒した様子だったので、
「昔から、臣下の諫めを拒み憎むのは暗君の常だが、このような行跡が江戸に聞こえたら、将軍家からどのようなお咎めを受けるか知れない」
と、心ある人は眉を顰めあった。
 諫書の連判の一人に主馬の名もあった。清六はもっけの幸いとばかり、密かに若殿に讒言した。
「あの者は、風流の技がないせいで、殿様のお側近くに召し出されたこともありません。しかるに、武芸一点張りの自分が重く用いられないのを憤るあまり、大したことでもないのを『殿様は奢侈にふけり、政務をお忘れだ』と申し立て、兵書の講義にことよせて諸士を集めては、殿様隠居の評議を行っているとのこと。このたびの諫書も、主馬のはからいといいます。自分の愚かさをかえりみず、厚恩の主君を恨み、非道を企てる曲者なのでございます」
 もとより愚将の殿様だから、すべて真に受けて大いに怒った。真否を質すことなどせず、ただちに主馬を追放するよう命じた。
 主馬は思いもかけない讒言によって、無実の身に辱めを受け、累代住み慣れた屋敷を退去して、妻子を伴い、少しの所縁を頼って都へ上った。そして、町家を借りて剣術を指南し、また軍書の講釈などによって、乏しい暮らしを立てた。

 清六はますます殿の覚えめでたく、しだいに昇進した。
 あるとき殿の御用を請けて上京し、権勢にまかせて大勢の供廻りを従え美々しく辺りを払って道を行く途中、五条の橋のそばではからずも主馬に出会い、乗り物の内から顔を見合わせた。
 主馬はかねてより憎い、憎いと思っていた気持ちが口をつき、
「虎の威を借る狐武士め。見るも胸糞悪いわ」
と呟いて通り過ぎた。
 それが耳に入って、清六は大いに怒った。
「我をそしった報いで浪人したのにも懲りず、昔に変わらず悪口を吐くとは、堪忍ならぬ。よし、このたびは密かに殺害して、我が怒りを鎮めるとしよう」
 そこで、主馬のあとを尾けさせて宿所を見届けさせると、家来の一人で鉄砲の巧みな者に、
「あやつは剣術の達人だから、刀剣で勝負するのは容易でない。隙をうかがって、撃ち殺してこい。褒美は望みのままに与えよう」
と命じ、さらに一人の腕の立つ者をつけて向かわせた。
 そうとは知らず、主馬は翌日、心願あって賀茂神社に参詣すべく、従僕の三平という者一人を連れて出かけた。
 清六の二人の家来は、町人の身なりに変装して、主馬が家を出たときから尾行し、隙あらばと狙った。やがて松並木の繁るところに来ると先回りして身を隠し、鉄砲に火薬を仕掛けて待ち、無警戒に来かかった主馬の胸板を狙って撃った。
 どうと響く音とともに、弾はあやまたず胸を貫いて、主馬ははかなくも果てた。
 あっと驚き、うろたえ騒ぐ三平だったが、前後に二人の敵をむかえるや、抜刀して必死に斬り結んだ。

 この三平という者は、下郎ながらも忠義を守る心が堅固で、主馬が浪人して以来の困窮の中で骨身を惜しまず働き、昔に変わらず奉公にいそしんだ。主馬もとりわけかわいがり、我が子のように思って召し使っていた。
 夜になって三平は家に帰り、涙ながらに主馬の最期を語った。
 妻は思いがけない出来事に取り乱して、前後不覚に泣き沈んだ。当年十二歳になる子の権十郎は利発な少年で、やっと涙をこらえながら、三平に問うた。
「父を殺した仇は何者だ。姓名は分かるか。顔を覚えておるか」
「仇はほかでもありません。先に讒言をなした村田清六です。すみやかにあの者を討って、父上の霊魂をお慰めなさいませ。あの者の行き先は、この三平がよく知っております。一刻も早く追いつき、恨みを晴らすべきです。てまえが案内し、助太刀いたしましょう」
 三平が手伝って、権十郎は鎖帷子を着こみ、鉢巻をきりりと巻き、家代々に伝わる業物を腰に差した。さあ行こうという時、母親が押しとどめて涙ながらに言うことには、
「仇が知れたとはいうものの、幼年の権十郎のこと、剣術未熟の細腕で戦っては、返り討ちに遭うかもしれない。今しばらく時節を待って仇を討つほうがよいのでは…」
 しかし三平は、
「仰せはもっともながら、あの者が国に帰ってしまっては、もはや容易には討てません。今宵油断して泊まっている旅宿へ忍び入り、本望をお遂げになるのは、たやすいことです。少しも心配はいりません」
と振り切って、権十郎とともに飛ぶがごとく出ていった。

 清六は大阪へ向かうつもりで、その夜は伏見に宿をとり、主馬を討たせにやった二人の戻るのを、今か今かと待ちわびていた。そこへ二人が帰ってきて、
「このとおり、仕留めました」
と首を見せて、始終を詳しく語った。
「よくやった。大手柄だ」
 清六は二人を褒めそやし、首を見て心地よげに笑って、
「我が威勢をねたみ、たびたび悪口を吐いた報いだ。ざまあみろ」
と嘲りながら、首を宿の前の淀川に流してしまった。

 三平が権十郎を伴って伏見に着いたのは、夜もはや十二時を過ぎていた。
 宿屋はすっかり寝静まり、門に錠を下ろしていたが、三平は苦もなくさらさらと押し開き、奥の間を目指して進んだ。それを見咎める者は誰もなかった。
 清六の伏す部屋の次の間に、主馬を討った二人の若党が並んで寝ていた。その枕元を荒らかに踏み、
「今日主人を害した者どもに、恨みを報ずるなり」
と声をかけた。
 一人が驚いて起き上がったところを、三平は肩先から袈裟がけに斬り倒した。もう一人は権十郎が抜かりなく馬乗りになって、胸元を刺し貫いて殺した。
 この物音に目を覚ました清六が、枕元の刀を取って立ち出でて、
「狼藉に及ぶのは何者か」
と咎めるに、
「諸葛主馬の一子、権十郎」
「家来、三平」
と名乗りを上げて、二人はどっと斬りかかる。
 清六は刃を受け流し、しばらく戦ううち、権十郎の腕が疲れてきたのを見て取って、たたみかけて打ち込んだ。
 危うし権十郎!というとき、三平が清六の背後から右腕を斬り落とし、たまらず清六は倒れ伏した。権十郎はその上に乗りかかり、
「父の恨み、思い知れ」
と叫びつつ、とどめを刺した。

 清六の首を打ち落とし、袖をちぎって押し包むと、二人は勇み歩んで家に立ち帰った。
 『もしや返り討ちに遭ったのでは』と心配で胸が潰れんばかりだった母親は、二人の姿を見て夢か現かと目を疑った。夫を亡くした悲しみはあっても、仇を討って我が子が帰った嬉しさはかぎりなく、
「すべて三平の忠義の働きがあったればこそ…」
と褒めたたえ、心から礼を言った。
 しかし、意外にも三平はうちしおれて、
「じつは私も、御主人とともに敵に討たれて死んだのです。しかし、私なしでは、権十郎殿は清六の面体を見分けられません。また、いまだ幼年ゆえ、助太刀なしに仇討ちを仕遂げるのはむずかしい。『なにとぞ早く御主人の恨みを晴らさん』と思い込んだ一念がこの世を去らず、助っ人として現れ出たのです。首尾よく敵を討ちおおせた今、冥途の道へ戻らねばなりません。お名残り惜しいことです…」
 そう言う声のみ耳に残って、姿はたちまち消え失せた。
 母子は、不思議の思いにしばし我を忘れた。まったく忠義の亡魂が助太刀して敵を討ったというのは、古今に例のないことだと感嘆し、主馬と三平の葬礼を手厚く執り行って、あとを懇ろに弔ったという。
あやしい古典文学 No.1690