『天文雑説』巻第二「南都臆病者事」より

南都の臆病者

 興福寺の僧が、「世に臆病ほどどうしようもないことはない」といって、話したことだ。

     *

 奈良に住むある大工が、つくづく思ったことには、『近年は天下が不穏で、盗賊が在所在所を騒がしている。このような時世では、町家であっても心配だ。とにかく戸締りを十分にするに越したことはない』と。
 そこで家内の五六人の者たちが、日没の頃から戸を閉ざし、どんな用事で来た人にも、戸を隔てて受け答えして、けっして開けなかった。

 ある夜、盗人が来て、戸に穴をあけ、手を入れて掛け金を外しているのを、主人の大工が聞きつけた。
 『やっぱり来たか』と、手槍を持って震えながら戸の傍らに近づき、『開けて入ってきたら突き殺そう』と思ううち、頭の毛は逆立ち、足はよろけ、手の力が抜けてきた。それでもなんとかこらえていると、盗人はようやく戸を細目に開けて、頭を差し入れようとした。
 大工は大声を張り上げて、
「盗人め、思い知れっ!」
と言ったが、槍は辛うじて手に握ったままで、突くことなどできもしない。
 しかし盗人はその声に驚いて、
「わぁ、ごめんなさい」
と言うや逃げ失せた。
 その騒ぎに、家内の者たちが起きてきて、火を灯して見れば、大工が髪を振り乱し、槍を持って立っていた。しかし、盗人を殺した様子には見えない。
「どうしましたか」
と問うと、
「さてさて、運のいい盗人だ。たしかに仕留めたはずが、逃げられた。さては、槍より言葉のほうが先立ったか。まあ何であれ、また来ることはなかろう。首尾は上々だ」
と声高に言って、寝床に横になった。
 ところが、寝入ってからまた大声をあげた。
「思い知ったか! 思い知ったか!」
 尋常でない叫びに驚いて女房が揺すり起こすと、
「なんと恐ろしい盗人だ…」
と、震え声で呟いた。
 その翌日から悪寒がして、続いて火を焚くがごとく発熱した。家じゅうが慌て騒ぎ、医者を迎えて診てもらい、煎じ薬など処方されて飲んだが、熱は下がらない。
「ああ、盗人が恐ろしい。おお、こわい、こわい…」
などと泣くので、医者も扱いかねて、
「昔から多くの熱病を治療してきたが、このような臆病の熱は初めてでござる。この病は、その盗人でなくては療治できますまい。早々にその者を呼び迎えて、よくよく詫び言をするのがよい」
と言い捨てて帰ってしまった。

 その後は、他の医者もこのことを聞き知って、療治しようという者は一人もいない。そこで高徳の真言僧を迎えて祈祷をしたけれども、はかばかしい効果はなかった。
 とはいっても死ぬこともなく、五十日ばかり寝込んだあと、自然に熱も下がり、なんとか正気になったが、話は町々に広まって、人々は手を打って大笑いしたのだった。
あやしい古典文学 No.1694