長山盛晃『耳の垢』巻二十九より

水利に詳しい人

 那珂惣助は、秋田藩初代藩主佐竹義宣公の時代の藩士で、生まれながらにして水利に詳しく、治水工事などを手掛けるに、どこであれ成し遂げないことがなかった。

 当時、雄物川は、長沼を流れ、手形を通って泉村の下を行き、天徳寺前から笹岡の方を通って、湊山屋敷の後を通って海に入っていた。それを義宣公は、現在の川筋に付け替えるよう那珂氏に命じた。
 それは大工事だった。那珂氏は「なにとぞ首尾よく成就しますように」と竜神に願をかけ、川筋を掘り始めた。
 しかるに、勝平山の下の寺内村のあたりまで来ると、大石が数多あって、それを取り除けるのに大勢の人足がかかった。
 作業の休憩時間には、若い元気な人足たちが相撲をはじめ、勝負を争って楽しんだ。その中で十二三歳の少年にしか見えない小柄な若者が一人、ずば抜けて力が強く、数百人の人足の中で彼に勝つ者はなかった。
 那珂氏がその若者の働きぶりを見るに、普通の人の七八人前の力があって、まったく尋常の人ではないから、近くに呼び寄せて話しかけた。
「そのほうの働き、世の常ではない。よって褒美を取らせる。何なりと望みを申せ」
 若者は喜んで言った。
「藤色の木綿一反を下さるなら、私のような者をさらに二三人連れて参ります」
 そこで、さっそく紫染めの木綿を三反用意して与えた。
「がんばって働いてくれ。また望みがあれば取らせよう」
 若者は感激した様子で、翌朝から同じように小柄な者二人を連れてきて、一緒に働いた。新参の二人も力は劣らず、大石を運び、土を掘り、二三十人でかかるべき作業を三人でやってのけた。そうして数日後、新しい川筋は難なく完成した。

 新川に水を流そうとするとき、那珂氏は、暇乞いに来た三人に、
「おまえたち、まことに苦労であった」
とねぎらいの言葉をかけて、また紫の木綿二反ずつを与え、
「今後、どこなりと望みのところに住むがよい。ただし、決して人の迷惑にはなるな」
と諭して帰した。
 その後、他の人々が仔細を問うと、那珂氏が言うことには、
「彼らは人間ではあるまい。察するに、世に言う河童の類であろう。紫色の木綿を好むゆえ、それと気づいたのだ。とはいえ、人に害を為すものではない。彼らがこの新川に住居する限り、後々までこの川に変事はあるまいと思う」と。
 はたして、その言葉どおりであった。
あやしい古典文学 No.1708