加藤曳尾庵『我衣』巻十六より

神霊の弟子

 下谷茅町の遠州屋という者の子は、七歳にして突如行方不明になった。五年を経て十二歳のとき、何処からともなく帰ってきたが、そのときの姿は、常人とはかなり異なっていた。
 その後、長者町の薬種商 長崎屋新兵衛が、その少年の親の了承を得て、若い衆として雇い入れた。

 少年はある時、主人に向かい、
「店の裏に井戸を掘りたいと思います」
と申し出た。新兵衛は戯言として取り合わなかったが、やがて四斗樽の底を抜いたのを持ってきて、裏庭の空地に据え、
「このへんでよかろう」
と言いながら樽の縁に手をかけて、何の苦もなくズブズブと土中に押し込んだ。
 見る者が胆を潰しているところへ、また一つ樽を持ってきて、先の樽の上に押し当て、これも押し込んでから土を除けた。
「これで水が出ます。どうか竹の節を抜いたものを持ってきてください」
と頼むので、長い丸竹の節を抜いて渡すと、切り口を下にしてそろそろと押し込み、やがてまた抜き出した。
「さあ、すぐ水が湧き出ますよ」
 そう言いながら樽の縁にまたがって小便をすると、下から水が見る見る漲ってきて、よい井戸になった。

 このことは方々に伝わって、「不思議だ、不思議だ」と噂になった。
 下谷に住む医者で学者の平田玄瑞が、少年を試そうと、家に連れてきた。しかし、少年のふるまいはとても十三歳のものとは見えず、一日じゅう木に登って遊び、あるいは冬の池に入って氷を砕いては座敷に投げ込むなどして、さながら小児のようだった。
 国学者の屋代太郎氏もあれこれ試し見て、今まで何国にいたのかと糾問したが、いっこうに言わなかった。
 ただ、大人にまさる大食で、鰹節などは一度に四五本も齧った。折々は人の目を驚かすことも為した。
「山にいるときは、空へも昇り、月や星の近くへも行きました」
と言うので、儒者や僧侶がいろいろ問いただしたところ、やっと詳しく話した。
「常陸の筑波山の脇に、岩間山という所があります。ほとんど人の通わないところで、清浄の地です。わが師と崇める人は、杉山僧正という方で、二千年来の神であらせられます。僧正に仕える者もみな神通力がありますが、天狗の類ではなく、まことの神霊です。天狗などは卑しい者で、我々のそばへ近寄ることもできません」
 そのほかいろいろなことを言ったが、くどくなるのでいちいち書かない。

 岩間山という所へは、一夜で往来するのだという。あるとき少年が「また行く」と言うので、屋代氏は、
「神代の文字に分からないものがある。岩間へ行ったら、『ここはどう読むのか』と師に問うてくれ」
と、その書を持たせた。
 少年は約束した日に帰ってきて、
「師のおっしゃるには、ここは四字脱落があるそうです」
と指摘して、書を返したそうだ。

 少年はよく書を為したが、読むことはいっこうに知らなかった。
「山に居るときは、常に砂でもって手習いをします」
と言い、筆者も扇面に書かれたものを見たが、筆力が異様で読めなかった。
 また、神代の笛の形だと、九尺と五尺の笛二管を作った。真ん中に吹き口があり、さらに向こうに二人、こちらに二人の、五人で吹く笛だそうだ。
 射程百里の鉄砲があるといって、その作り方と使い方を示した。理にかなうところがあったとみえて、御鉄砲師の国友が試作を仰せつけられたとのことだ。
 そのほか、真言僧の印の結び方などを咎めて閉口させたとか、いろいろな異説があるけれども、略す。
 末はいったいどうなることか。
あやしい古典文学 No.1728