宮川政運『宮川舎漫筆』巻之三「明がらす比翼塚」より

労咳の薬

 「信じ難きは仏法の道、迷い易きは色欲の道」という。まことにもっともな言葉だ。
 明和六年のこと、どこぞやに伊之助という者がいて、新吉原町の美よし野という遊女と深い仲となった。互いに真心を尽くすうち、ついに離れがたい恋情に迫られて、七月三日の夜、ともに命を捨てた。
 なきがらは南本所猿江慈眼寺に葬られた。その墓は、愛し合って死んだ男女を一緒に葬った比翼塚である。
  意実浄貞 伊之助  二十一歳
  心誠妙貞 美よし野 二十四歳
 それぞれが書き残した歌がある。
 伊之助、
「ひとり来てふたり連れだつ二世の道ひとつ蓮(はちす)に受ける露の身」
 美よし野、
「川竹の流るる身をばせき留めて二世とちぎりて結ぶ嬉しさ」

 やがて、二人の名を「浦里・時次郎」と変えた新内節「明け烏の曲」が作られ、大いに流行ったと、慈眼寺の縁起に記されているらしい。
 どういうわけか近ごろは、この比翼塚の塔婆を削って飲むと労咳の病に効くといい、世の人が競って服用している。
あやしい古典文学 No.1734