『今昔物語集』巻第二十七「近江国生霊来京殺人語」より

近江から来た生霊

 むかし、京都から美濃・尾張のほうへ下ろうとする男がいた。
 明け方には京都から出ようと思い、真夜中に起きて行き、なんとかという四つ辻まで来たところ、青っぽい衣を着て裾を持ち上げた女がただ一人、大路に佇んでいた。
 男は『あの女はいったいなんだろう。こんな夜中に、まさか一人で立っているのではあるまい。連れの男がいるはずだ』と思って、そのまま通り過ぎると、女が後ろから呼びかけた。
「もし、そこのお方、何処へ行かれるのですか」
「美濃・尾張のほうへ下るところです」
「それではお急ぎのことでしょうが、ぜひともお頼みしたいことがあります。しばし足を止めて聞いてください」
 男は、どんな頼みかと立ち止まった。
「この辺りで、民部大夫何某という人の家は、どこでしょうか。そこへ行こうとしているのに、道に迷って行き着けないのです。民部大夫の家まで、連れて行ってもらえませんか」
「その家に行くのに、こんなところに居てはいけません。ここからだいぶありますよ。なにぶん私は急いでいて、あなたを送っていく時間はありません」
「でも、とても大切な用があるのです。どうかどうか、お連れください」
 男は、仕方なく女を連れて行くことにしたが、たいそう嬉しげについてくる女の様子が、どうも怪しく、恐ろしいものに思われた。それでも『こんなことはよくある』と自分に言い聞かせて、なんとか民部大夫の家の門前まで送り届けた。
「ここがその人の家です」
と言うと、女は、
「たいそうお急ぎのところを、わざわざ引き返してここまで送ってくださって、ほんとうに嬉しく存じます。わたしは近江国のどこそこという所の、だれそれという者の娘です。東の方へ向かわれるなら、その道筋の近くですから、かならず立ち寄ってください。今のご不審が晴れるよう、お話もいたしましょう」
などと言ったかと思うと、かき消すように目の前から姿が失せた。
 男は『なんと奇怪な…。門が開いていたなら中に入れるだろうが、閉まったままではないか』と、ぞっと身の毛がよだって、竦んだようにその場に立ち尽くしていた。
 すると、その家の内から、にわかに泣き騒ぐ声が聞こえてきた。『何事か』と耳をそばだてるに、どうやら人が死んだらしい。『いよいよ怪しい』と思って、しばらく辺りを徘徊するうち、夜が明けてきた。
 『何が起こったのか尋ねてみよう』と思って、すっかり明るくなってから、その家にいるちょっとした知り合いを呼び出して訊いた。
 知り合いが言うには、
「近江国にいらっしゃる奥方の生霊(いきすだま)に、ここの殿が憑りつかれた様子で、このところずっと患っておられたが、この明け方に『生霊が目の前に現れた』などと仰って、そのまま急死なされたのです。生霊が人を取り殺すことが、実際にあるのですね」と。
 これを聞いて男は、なんとなく気分が悪く、頭が痛くなってきた。『女は喜んだが、おれはその毒気に当てられたのだな』と思い、その日は旅を行くのをやめて、家に帰った。

 それから三日ばかり後に、また東国へ下る旅に出て、女が教えた所あたりを通りかかった。
 『さて、あの女の言ったことを確かめてみよう』と思って訪ね行くと、たしかに話のとおりの家があった。
 立ち寄って、京都での出来事を語って取り次ぎを頼むと、
「そういうこともあったでしょうね」
と呼び入れられ、簾ごしに女と会った。
 女は、
「あの夜の嬉しさは、けっして忘れません」
などと言って食事をふるまい、絹・布などをくれた。
 男はたいそう恐ろしく思ったが、とにかく物をいろいろ貰って退出し、東国へと下っていった。

 この話から考えるに、生霊とは、人から抜け出た魂が憑りついて、あれこれ勝手に悩ますものではなく、なんと、その振る舞いは当人にも確かに分かっているのだ。
 これは、かの民部大夫が妻にした女が、後に捨てられて恨みを抱き、生霊となって夫を殺したのである。
 このように女の心は恐ろしいものだと、さまざまに語り伝えたとのことだ。
あやしい古典文学 No.1746