『奇異怪談抄』上之上「巴西侯」より

巴西侯

 唐の玄宗皇帝の開元年間、張某という旅人が、湖南の盧渓から蜀の故郷へ帰る途中、巴西というところで日が暮れた。
 馬を速めて行こうとしたとき、道端の山の小径から人が現れ、話しかけてきた。
「わが主人の命で、日暮れて宿のない貴方様をお迎えに参りました」
 張が、
「汝の主人は、この地の太守か」
と問うと、
「太守ではありません。巴西侯(はせいこう)です」
と。

 張は、巴西侯の使者について行った。
 山に入ること百歩ばかりで、たいそう高い朱塗りの門があった。中に人が大勢いて、甲冑の兵が門の周囲を守っていた。君主の家といえども、これ以上の構えはないと思われた。
 門を入ってさらに行くこと数十歩にして、また一つの門前にいたった。使者は張を門外にとどめて、
「まず主人に申し上げてきます」
と言って入っていったが、やや久しくして出てきて、張を導き入れた。
 堂上に立って迎えた主人は、毛皮の衣を着て、容貌ははなはだ異様だった。よそおい美しい者が、左右に侍していた。
 張が拝すると、主人も礼をなして言った。
「我は巴西侯である。この山に住むこと数十年。たまたま客の通ることを聞いて、お迎えした。しばらくここにとどめて、おもてなししたい」
 張は感謝の言葉を述べ、酒宴の席に着いた。宴の器は、みな珍しく華麗なものばかりだった。
 巴西侯は、六雄将(ろくゆうしょう)、白額侯(はくかくこう)、滄浪君(そうろうくん)、五豹将(ごひょうしょう)、鉅鹿侯(きょろくこう)、玄丘榎尉(げんきゅうかい)の六人のもとへ人を遣わして、
「今日は珍しい客人がある。みな来て、酒宴に列せよ」
と招いた。

 やがて、六人がやって来た。
 黒衣を着た者は、やたらに頭を振った。錦を着て白い冠をかぶった者は、顔も身振りも獰猛だった。青い衣、まだらの衣を着た者がおり、綴織(つづれおり)を着た者の頭には三つの角があった。
 一人ずつ拝するに、巴西侯もまた答拝した。おのおの東西南北に列座して酒を呑み、音楽を奏でた。十余人の美女が出て、管弦に合わせて唄ったり舞ったりした。
 酒宴のさなか、白額侯は張に向かって言った。
「我は今日、まだ夜食をとっておらぬ。客人よ、我に食わせてくれ」
「君の好みの食物が何か、まだ知らないので……」
と応えると、
「ただ客人の身を食いたい。ほかの味は求めぬ」
と言う。張は恐れて、逃げ腰になった。
 巴西侯はそれを見て制止した。
「つまらぬことを言うな。この面白い酒宴の場で、どうして客の心を冷まそうとするのか」
 白額侯は笑って言い訳した。
「いや、戯れて言っただけだ。本心ではない」

 しばらくして、洞玄先生(とうげんせんせい)という者が門をたたき、
「申し上げたいことがある」
と言いながら入って拝した。黒い衣を着て、頭が長く体の幅の広い者だった。
 巴西侯が座をすすめ、
「なにゆえに来たのか」
と問うと、洞玄は答えた。
「我が占いによれば、ここの御主人に凶兆がある。それを申し上げるために来た」
「凶兆とは、どんなことか」
「この座にある客人には、謀計がある。今これを除かねば、後に必ず害を被るであろう」
 巴西侯は怒った。
「この面白い酒宴に、なんの凶兆があるものか。縁起でもない。こいつを殺せ」
「我が忠告を用いるなら、おのおの方みな安泰だ。用いなければ、我も死に、おのおの方も死ぬ。後悔しても手遅れですぞ」
 巴西侯はいよいよ怒り、ついに洞玄を殺した。

 酒宴は真夜中におよび、皆ことごとく酒が回って、寝台に酔い潰れた。
 張もしばし寝入ったが、夜が明けようとする頃はっと目が醒めてみれば、自分は大きな石窟の中に横たわっていた。そこには、刺繍のある幕が張り巡らされていた。宴の席の珍器は、玩具のごとくあたりに転がっていた。
 一匹の大猿が、人のような身なりをして酔い伏していた。それが巴西侯だった。その前の大熊が、六雄将だった。さらにその前の白い頭の虎が、白額侯だった。狼がいて、それは滄浪君だった。豹がいて、これは五豹将だった。鹿と狐がいて、鉅鹿侯と玄丘榎尉だった。みな同じように伏して正体がなかった。
 また、一匹の亀が死んでいた。殺された洞玄先生だった。
 張は驚き、ただちに山を出て馬を馳せ、里人に見たままを告げた。里人百人あまりが、弓矢を取って山に入り、かの石窟に至った。
 大猿は目覚めて、
「えらいことになった。洞玄先生の忠告を聞かなかったせいだ」
とうろたえ騒いだ。
 里人は石窟を取り囲み、妖物をことごとく殺した。そして、蓄えられていた珍物を書き上げ、仔細を太守に報告した。
 ここを通る旅人は、金玉・絹綿などを多く失うことがあった。みな巴西侯が奪っていたのだが、これより後、道は安全になった。
あやしい古典文学 No.1752