阿部正信『駿国雑志』巻之二十四下「蛇蛻」より

蛇の抜けがら

 駿河国志田郡の大楊山長慶寺は、今川泰範の墓所で、当初は真言宗だった。
 天文年間、今川義元は、今川家の軍師 大原雪斎に、衰えていた長慶寺を再興させた。寺は臨済宗に転じ、大龍山臨済寺の隠寮となった。

 長慶寺の今川泰範の墓には、義元の分骨も納められてあるという。
 その墓石には、常に蛇の抜けがらが、まといつくように掛かっていた。もし風雨にあって吹き払われても、一夜のうちに元どおりになった。
 文化六年ごろ、寺の住職と、客の素白という僧とが、泰範の墓をあばいて、義元の分骨合葬の真偽を確かめようと試みた。
 まず五輪の笠石を外してみると、真ん中に立つ丸い石柱が台座を貫いていることが分かった。その石柱を抜こうとして、ようやく二三寸引き出したら、それとともに石柱に巻きついた小蛇が半身を現した。
 蛇は五色の鱗で、斑点があった。金色の光を発するや忽ち大蛇と化し、頭をもたげ憤怒の形相をなしたが、すぐに頭を石柱に寄せてその顔面を隠した。
 二人の僧は恐怖のあまり茫然自失して、ひとたび持ち上げた石柱を下ろした。すると蛇も石柱といっしょに台座の穴に入って、姿が見えなくなった。石柱と穴との隙間はごく僅かなのに、どうして蛇が入ることができたのか、不思議であった。

 二人の僧は、その夜にわかに発熱し、陰茎がひどいミミズ腫れになった。両腿と肛門が日を追って腐乱し、全身が耐え難い疼痛に襲われた。
 医師にかかって服薬しても治らず、ついに住職は命を落とした。
 素白は墓の祟りであることを悟り、日夜誦経して、霊廟を犯した罪を陳謝した。連日の服薬の効もあって、さいわい病は癒えたという。
あやしい古典文学 No.1770