津村淙庵『譚海』巻之十より

隣家の老人

 寛政六年、寺社奉行の某殿が儒者を召し抱え、下屋敷の長屋を住まいとして提供したところ、儒者は、
「なにぶん老人ゆえ、御講釈が済んでから夜更けに下屋敷まで帰るのは大変難儀です。どんな長屋でも構いません。上屋敷に住まわせてください」
と願い出た。
 そこで空き長屋がないか調べたけれども、みな人が住んでおり、ただ一軒あったのは怪異のある長屋で、久しく住む人はなく、大名行列の用具などを入れ置く場所になっていた。
 主人は、怪しい長屋だから気が進まなかったが、儒者が、
「私は妻子もない身ゆえ、どんなわけありの所でもかまいませんから…」
と強く望むので、そこを与えることにした。

 長屋を修理し、掃除して、儒者が移り住んだその夜、隣家に住む者だという老人が来て、話をした。
 この老人は、昔の珍しい出来事をたくさん覚えていて、遠く天正年間のことなどを物語った。儒者は興味を惹かれるあまり、相手が妖怪かもしれないと疑うことも忘れ、よい友を得た気がして、親しく語り合うようになった。
 しかし、およそ半年ばかり過ぎたある夜、老人が来て言うことには、
「今まで隠してきましたが、まことの我は人間ではなく、年久しくこの屋敷に住まいする狸であります。あなた様とかように心安くなりましたが、このたび命数尽きて、近日うちに相果てることとなりました。ここへ参ることも、もはやありません」と。
 驚いた儒者がわけを尋ねると、
「去年までは御屋敷の台所に、食物の余りを多く落としてありましたので、それを食べて存命いたしましたが、近ごろ倹約がきびしく、余分な食べ物も少なくなりました。食事が乏しいせいか、しだいに気力も衰えて、重い病にかかってしまいました」
と言う。
「なんと気の毒な。わしの飯を分けてあげよう。それで生き延びられるのではないか。加えて医療が必要なら、どのような世話もしてあげる」
「そのようなことでは、いまさら助かりません。まったく命数が尽きたのですから、いたしかたなく、是非もないことなのです」
「そうか。それほどまでに定まったことならば、なんとも仕方ないと思われる。だが、これまで懇意にしてくれた礼に、何か好物があれば振る舞いたい」
「まことにありがたいお申し出。それならば、餅をなにとぞお振る舞いください。明日の夜にまた参ります。ただし、ふだんの姿で参ることでしょう。人間の形をするのは大変窮屈であり、もはや気力も尽きた身で、それはいたしかねます。これまでのようにお迎えいただくのも、ご容赦願います」
 老人は、そんなことを語って帰った。
 翌日の夜、餅を用意して土間に置いておくと、真夜中の零時過ぎ、痩せ衰えて毛も落ち、化け物じみた狸が一匹、縁の下から這い出て餅を喰らった。ときどき噎せて咳き込み、ようよう喰らい終えて、また縁の下に入った。
 その後、再び姿を見ることはなかった。

 儒者がこのいきさつを主人に話したところ、
「怪しくも不憫なことだ。きっと死骸があるにちがいない。弔い葬ってやるがよかろう」
とのことで、縁の下をはじめ、いたるところを捜させたけれども、どこにも死骸は見つからなかった。
あやしい古典文学 No.1778