藤岡屋由蔵『藤岡屋日記』第三十七より

鰯のぬた

 小石川諏訪町の湯屋権次郎方借家人に、鉄物渡世の徳太郎という男がいた。
 徳太郎は、以前から懇意にしていた老婆があって、小日向服部坂に住まいし、六十歳くらいだった。
 その老婆が、嘉永五年四月一日昼ごろ、小紋の袷に半天羽織を着て藁草履をはき、徳太郎方へひさびさに来て、いろいろ話をした。そのうち、
「ずいぶん腹が減ったから、鰯のぬたで飯を食わせてくださらんか」
と言うので、たやすいことだと、ちょうど通りかかった鰯売りに早速ぬたを拵えさせ、食べさせた。
 老婆は飯三四杯を、鰯とともに旨そうに食ってしまった。
「なんだかひどくくたびれた。枕を貸してもらいたい」
 そこで枕を出してやると、すぐに寝入って、ほどなく目を覚ました。
「これから、外神田へ嫁に行った娘のところに寄らねばならぬ」
 老婆はそう言って、暇乞いして帰っていった。

 その二日後のことだ。
 小日向水道町そだ橋角の鉄物屋は徳太郎の親方なので、そこへ顔を出して、かの老婆が来た話をすると、親方は大いに笑った。
「おいおい、出鱈目もいい加減にしろ」
「とんでもない。本当の話ですよ……」
 そして当日のことを詳しく語ったところ、親方は、
「それは不思議だ。あの婆さんは、先月二十五日に病死して、一日は初七日だったのだ」
と驚いた。
 徳太郎は服部坂の老婆の家へ行って確かめたが、三月二十五日に病死したことに間違いなかった。
あやしい古典文学 No.1787