藤岡屋由蔵『藤岡屋日記』第三十八より

狐に憑かれて大暴れ

 嘉永五年五月二十六日のこと。
 元飯田町九段坂下、棒屋裏長屋の口入業 越中屋清助方に寄宿する男が、人の供をして上野の寛永寺に参ったところ、境内にて狐に憑りつかれ、狂いだした。
 連れの者をはじめ大勢が取り押さえようとすると、六メートルあまりある杉の木に駆け上がった。しかたなく樹上の男を眺めていたところ、男は梢を跳び越え枝を伝い、猿や栗鼠よりめまぐるしく動き回り、そのまま何処へ逃げていったか、行方を見失った。
 連れの者らは空しく立ち帰った。夜の八時ごろになって、男も飯田町へ帰ってきた。
 主人清助が、いったいどうしたのかと尋ねたとき、またまた狐が乗り移ったか、
「飯田町を残らず焼き払ってやる」
と罵って、屋根伝いに駆けていった。一足で二三間ずつ跳び歩き、四十八軒の大長屋の物干しを残らず破壊した。
 男は天狗が二人手伝っているとか言って意気軒昂で、多数の鳶の者が三間梯子でもって払い落とそうとするも、逆に梯子を取り上げて振り回した。
 二十六日の夜はこんな騒ぎで、近辺の者が大勢、提灯をともして見物に押しかけたそうだ。

 翌二十七日の朝、男は中坂下の大ドブに転落した。
 しかし、人々が寄ってたかって取り押さえようとするうちに、いつのまにか姿が消え失せていた。
 皆あっけにとられて、三々五々帰っていったが、ともあれ、二十六日夜八時ごろから翌朝の八時前まで、夜通し大騒ぎしたのである。
あやしい古典文学 No.1788