『事々録』巻之二より

火事熊

 弘化二年正月二十五日、朝から北西の風が大いに吹き、門戸を鳴らし、屋根を荒らすこと甚だしかった。戸外に人の気配は絶え、風勢にすべてが鳴動するばかりだった。
 正午になって風はますます激しく、午後一時過ぎ、青山鼠穴の大御番 前田左兵衛宅より出火。方々に燃え広がって、青山五十人町、麻布に至り、永坂より芝田町三丁目に至り、高輪近くまでいって、真夜中にようやく鎮火した。これはつまり、海辺に至ったからである。
 後に聞くに死者が多く、「かの辻で三人焼死した」「ここの町で五人黒焦げになった」などと噂が飛び交った。

 古川近くの諸侯の子息が、避難しようと馬に乗り、開門したところ、どこからか一頭の熊が現れ、襲いかかった。馬上に取りつき、子息に噛みついたが、近習の侍も熊の猛勢に怯んで、すみやかに引き離すことができない。
 このときたまたま門前を行く武士が、柔術の手練れであった。門前の騒ぎを見かね、すぐに走り寄ると、熊を掴んで引き離し、組み止めて突き殺した。
 馬上の子息は、重傷を負った。

 この熊は、近ごろ里の寺院で飼われていたものだ。最初は一人の痴れ者が飼って市中を引いて歩き、子供らの疱瘡のまじないとして銭を得ていたが、どんな経緯か、後に寺に預けたのだという。
 熊自身が火事に驚いて鎖を切って逃げたのか、または、火で焼け死ぬのがかわいそうだと誰かが放したか、二つのどちらかだろう。
あやしい古典文学 No.1796