堀麦水『三州奇談』四之巻「大人足跡・小人足跡」より

大人足跡・小人足跡

 加賀国の木越には、天正のころ、一向一揆の三拠点の一つだった光徳寺の城跡がある。
 当時は粟ヶ崎の湖水を引いて要害を構え、光林寺などの末寺を建て並べて、織田信長の軍勢を相手に戦った。
 正面から攻めてくる佐久間盛政勢と必死に戦う間に、背後から能登の長連龍勢が寄せてきて、湖水の堤を切って落とした。これにより城は持ちこたえられず、長連龍に降参して、光徳寺は能登に移ることとなった。今の所口光徳寺がそれである。
 木越の光徳寺の跡には、蓮如上人の旧跡や種々の遺宝があって、いまや金沢の遊覧の地の一つとなっている。そこの梅の古木は、花が四季に咲くといわれる。

 光林寺の跡は今は田んぼの中だが、ここに「大人の足跡」がある。
 足の形に土が窪み、草は一筋も生えていない。足の指一つ一つまで、たしかに足跡と見える。窪んだ下は石なのだろうか、ともかく奇怪なものだ。
 能美郡の山入波佐谷というところの山の斜面にも、同じような足跡がある。指の一本ずつの窪みがあり、草が生えない。
 もう一つ、越中倶利伽羅山の打越に、これらと変わらない足跡がある。長さ九尺あまり、幅は四尺ばかりだ。
 今のところはっきりしているのはこの三つだ。一跨ぎ七八里を隔てており、どれほど大きな人が歩いたことか知れない。
 能美郡ではこれを「たんたん法師の足跡」と呼ぶ。いつのころからの言い伝えなのか分からない。木越の足跡は田んぼの中だから、草の育つころは遠くからでもはっきりと見える。まことに壮観だ。

 木越の足跡の傍らに、討死した長連龍勢の兵の塚がある。
 隣接する八田村には、源義経の重臣だった鈴木三郎重家の塚とされるところがある。地元では今「三薄の宮」と呼んでいる。
 言い伝えによれば、重家から五代の子孫である新九郎という者が、この地に来て百姓となり、湖のほとりで鱸(スズキ)を釣った。その鱸はたちまち美女と化して、新九郎と夫婦になった。
 二人は久しく共に暮らしたが、あるとき「龍宮からお召しがあったので帰ります」と言って、妻は消え失せた。あとには一匹の鱸の死骸が残されたので、それを地に埋めて塚を立てた。
 その後、新九郎は富樫氏に仕えてこの地を領したが、某年八月十六日に死んだ。亡骸は、やはりこの地に埋められた。
 こうして三つのスズキがそろったから、「ミスズキ」と言った。やがて薄(ススキ)も生え出たので、村人は一つの社に祀って「三薄の宮」と呼び、八月十六日には餅や酒を供えて祭を催す。
 ある年、祭礼を怠ったら、村じゅうが疫病に罹って苦しんだ。そこで社に詫び言をして十一月十六日に祭礼を執り行ったところ、村人はみな回復した。その後、薄が大いに繁茂し、それを伐ると血が流れた。村人ははなはだ恐れて、今なお祭礼を欠かさない。

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 同国河北郡長沢という所に、一つの奇談がある。
 その村の草原の中に、遠い昔から「小人の足跡」があって、長さ一寸五分、幅七分、そこには今に至るまで草が生えることがない。
 「でらでら法師の足跡」と、昔から呼ばれている。いかなる人の足跡だろうか。なんとも不思議だ。
あやしい古典文学 No.1799