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宮川政運『宮川舎漫筆』巻之二「干塊し死骸」より |
朽木のような塊 |
文化九年の夏のころ、相模国の代官某の支配地で、乾いて固まった死骸を掘り出した件の報告書。 * 相州津久井の名倉村で、名主源内の召使はなの娘つねが、四年前の六月二十日、ニ十六歳で病死いたし、源内所持の字谷内という芝地に葬りました。 今年の五月十日、つねの母はなも病死いたし、同じ場所に葬る決まりにより、村内の者を遣って穴を掘ったところ、何かに当たって鍬が折れました。 見れば、つねを葬ったときの桶が破れ、つねが形そのままで土中にありました。色がとりわけ白かったので幽霊と思い、穴掘りの者は仰天して逃げ去りました。 その後、村人たちは同村の桂林寺住職に同道を頼んで現場に戻り、あらためて検分して、朽木のような塊となったつねを寺に持ち帰り、法華経を供養して弔った次第です。 塊のつねは、高さ一尺八寸程。日増しに色が薄黒くなり、いっそう固くなりました。 固まり干からびたさまは、左眼が開き、右眼が塞がり、鼻が窪み、口が閉じ、両耳が張り付き、眉・髪の毛がなく、頭を下げ、両手が合掌し、膝を立て、手足の爪はすべて有り、乳の肉・腹の臓腑とも自然と固まり、陰門と肛門の穴は一つになっております。 死骸を打ち叩くとボクボクと鳴り、重さは三歳ぐらいの小児ほどあり、とりわけ手足が固く、蝕み・臭みなどなく、夏季ながら蠅がたかったりもいたしません。 当初は木の腐った臭いがしましたが、今は全身黒く固まっており、肉を爪または尖った木などで突いても、まったく跡がつきません。 現地で見分した者よりの聞き書きであります。以上。 |
あやしい古典文学 No.1812 |
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