木村蒹葭堂『蒹葭堂雑録』巻之三より

三面村

 米沢藩の家臣某が語った。

 出羽国米沢の北二十里ばかりに、小国というところがある。そこから三里北に、戸数七軒ばかりの折戸という村がある。そこからまた三里、絶壁を越えて、三面(みおもて)というところに至る。
 三面への行き来は、渓を渡り崖を踏み越え、道らしい道を行くことはない。崖に縋りながら、畔(あぜ)のような経路を、ひたすら折れては曲がり折れては曲がりして行く。
 およそ五里ばかりを経て、大河がある。河の向こうに戸数二十軒ばかり、まばらに見える。そこが三面だ。往来は、二艘の丸木舟によってなされる。
 この里に小池大炊助(こいけおおいのすけ)という隠士がいて、池大納言(いけのだいなごん)平頼盛から三十二代目の子孫だという。その所持する雑器・武器のたぐいは、みな数百年前のもので、今の時代のものではない。
 三面は、かつて民家が五十軒あったが、災害に見舞われて、今のように僅かになった。広さはわずか一町四方ばかり。四面を雲に届くほどの高い絶壁に囲まれ、まさに管で天を覗くかのような地形だ。
 いちおう越後国村上藩の領内であって、藩主から毎年数石の米を賜っている。また、米沢侯からも年ごとに米ニ十俵を賜る。米沢からの運搬は、小国を経由して、十二月に雪の上を踏み、荷を背に負うて三面にいたる。雪がないと運べる道がない。
 村上までは絶壁で、まったく道がない。十里ばかりの間、雪が二十メートルも積もって凍り、石のようになった上を通る。五月の末になると雪が消えるので、通ることができない。
 秋も九月になると冷気がきざし、男女とも熊の皮や諸獣の皮を身につける。
 男子は深山に入り、槍でもって熊を獲る。熊の胆と熊の皮を村上へ持ちゆき、その年の塩・味噌、その他もろもろの入用の品に代えるのだ。一年に熊を三十頭から五十頭獲るという。貨幣にしておよそ百両あまりになる。さらに、村上・米沢の二侯から賜るところの米を二十余軒に配分し、わずかの田畑で野菜を作り、それでもって露命を繋いでいるらしい。
 夏は、男子は麻の布の半纏(はんてん)を着す。女子は紺色の半纏に白布の腰巻、髪は中国の婦女のようだ。これらはすべて、話に聞く蝦夷人と同じである。
 南部領の山中や肥後国にも、異風の村があるという。遠方のことと聞き流していたが、わが米沢の近くにも、三面のような地があるのだった。
あやしい古典文学 No.1814