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『続蓬窓夜話』上より |
河童遊行 |
旧暦六月二十三日は、紀州 弱山湊(わかやまみなと)の蛭児(えびす)祭である。 昔はこの日に必ず牛の売買があって、多くの牛が浜辺に集まったので、湊の牛祭ともいったが、いつとなく牛は来なくなった。 祭は酷暑の時節に行われるから、祭の前後の日に川辺で水浴びをして、ややもすれば溺れて命を失う者も多い。 享保十一年六月二十二日の晩のことだ。 嶋田何某の十八歳になる息子が、近所の子供四五人を連れ、暑気しのぎに小野町の浜辺に出た。そこには大船が繋がれてあって、その周囲の小船を、あっちへ渡りこっちへ渡りして遊んでいた。 ところが、どうしたことか嶋田氏の子が、船を飛び移ろうとして足を踏み外し、海へ落ちた。水の深い場所で、沈んだまま浮かんでこない。子供たちはうろたえ騒ぐばかりで、どうすることもできなかった。 父母の家は近かったので、人々がおいおい駆けつけた。水練の巧者が潜って海中から抱き上げ、浜辺で救命を施したときには手遅れだった。やむなく戸板に載せて家に連れ帰り、なおも医者を呼び集めて療治したけれども、もはや何の甲斐もなかった。 それより前のこと。嶋田氏の子が沈んだあたりの大船の船頭が、こんなことを語った。 「このあいだから浜で水浴びする子供を眺めていて、中に見覚えのある小坊主がいるのに気がついた。あれは疑いもなく、かつて但馬で見た小坊主だ。 やつは人間ではなく、まさしく河童だ。どのようにしてこの浦へ来たのやら、とにかく、知らずに一緒に水浴びする子供が命を取られるのはかわいそうだ。急ぎ湊の浜へ行き、水浴びをやめさせたまえ。わしは但馬の河童がこの浦に来ているのを、たしかに見つけたのだ」 子を持つ者たちは大いに驚き、浜辺に走り出て、子供を水から呼び上げた。 船頭に、どうして但馬から来たことが分かったのかと問うと、 「わしが但馬の浦に船を繋いでいたとき、あの小坊主はたびたび船に来て物を乞うた。その物言いが人と違って、初めは聞こえるようで後は定かでない。河童に違いないと思ったから、油断なくあしらいながら日を過ごした。 河童はなんとも賢いもので、人の考えを先に知る。たとえば今度来た時にこの櫂で殴ってやろうと思うと、すぐに覚って傍に寄らず、『おまえは櫂で俺を打つつもりか』と言う。明日は船を出そうという心づもりでいると、早くも察して、『明日はさだめし出船だな』と言う。何事につけ人の心を先に知るさまは鏡のごとしで、そうと知りながら逆らえば、必ず仇をなして手酷い害を受ける。うまくやり過ごすに越したことはないと思って、いろいろ機嫌を取ったりもしたものだ。 そいつが今また、この浦に現れたのだから驚きだ。どうやら河童は諸国を遊行する者らしいから、この浦には昔から河童はいないなどと、けっして油断してはならない」 と言うのだった。 その後まもなくの二十二日の晩に、嶋田氏の子が溺死したわけだが、死骸は臓腑をことごとく引き出されて、腹中が空になっていたそうだ。 さてはかの船頭が語った河童の仕業かと、人々は怪しみあった。 その後も、この年は処々にて溺死する者が多く、みなその河童の仕業ではあるまいかと、怪しみ疑う人が多かったのである。 |
あやしい古典文学 No.1820 |
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