佐藤成裕『中陵漫録』巻之七「琉球の葬礼」より

琉球の葬礼

 琉球の大島や、その近くの島では、父母が死ぬとただちに首を切り、盆の形のものに載せて床の間のような所に置き、両目を見張らせて生きた眼のようにする。
 親類あるいは近所の知己は、死者が平生好んだ食物を作ってきて、その口の中に箸で挟んで入れてやる。
 首から下は四斗樽のような大桶に入れて台所の隅に置く。だいたい七日ほど過ぎて臭気が外に出たら、来る人々も、
「臭気も出たことだから、葬るべきだ」
と勧める。そこで葬儀の日を定めるのだ。
 また、父母に限らず家内の者が死ねば、すぐに焼酎を造る。およそ七日過ぎて、焼酎が熟して飲めるようになるのを待って葬る。人々が葬儀を勧めるのも、じつは焼酎が熟した時分をうかがってのことだ。

 葬送にあたっては、かの大桶に首も入れて、種々礼式を執り行い、葬列の人々はみな歌をうたう。
 山中の墓所までおよそ一キロある。道の途中で十回休んで造った焼酎を飲み、すっかり酔ったときに墓所に至る。
 旗を立て、太鼓を打ち、歌をうたって、墓を回りながら舞い踊る。その中に「泣き女」として頼まれて来た近隣の貧民あるいは老婆などがいて、皆もっぱら泣く。
 泣き女は、死者の尊卑・貧富によって違いがある。ふつう「一升泣き」といって米一升を与えるが、「二升泣き」は米二升を与える。これは泣きように差があって、「二升泣き」は格別に多く泣くという。富貴な死者の場合、十人・二十人といった大勢の泣き女が、葬る場所まで送り行き、その間ずっと泣く。一人でも多いのがよいとされ、人に高く評価される。
 近くの山の中腹に墓所を設けて深く埋め、小石を集めて上に置き、柴の枝を刺す。日本で樒を刺すのと同じ心である。
 それ以後、七日の日ごとに詣でる。およそ三年目の忌日に掘り出して、清水できれいに洗い、壺に納める。これを「骨洗い」といって、このときは他人を交えず、父子兄弟で洗う。家を持つ者の名誉だとされ、もし三年目に骨の洗い手がないときは、人がみな嘲笑する。気の毒に思う者もある。
 骨を納めた壺は仏間に置き、また三年過ぎると、「骨返し」といって、もとの墓所に埋めるという。

 ともあれ、父母が死んだとき、ただちに首を切り取らないと、たちまち祟りを為すそうだ。「身体が死んだのに首も切らないとは…」と大いに恨み、その祟りは甚だ恐るべきものだという。

 筆者が琉球人某に、これらの話は本当かと問い質したところ、「そのとおりだ」と答えた。
 いっぽう、薩摩の人に語ったら、怒って誰ひとり信じなかった。公用で琉球に旅した侍がいて、その人に同地の葬礼のことを聞いて、はじめて筆者の話が虚妄ではないと分かってくれた。それは、筆者が親しく聞いてもなお信じがたかったのと同様であった。
 新井白石の『琉球事略』には、「首を切って漆をほどこす」との説がある。これの真偽を琉球人に尋ねると、「それはない」と答えた。
あやしい古典文学 No.1823