佐藤成裕『中陵漫録』巻之五「黒奴毒死」より

黒奴毒死

 日本に来るオランダ船の乗員は、七十五人である。そのうちオランダ人は三十五人だけで、ほかは「黒奴」という水夫であり、ジャガタラ国で買い集めた南方の人だ。ジャガタラ、ジャワの人がもっとも多いが、いずれにせよ、その衣服や靴は、出身の国によっていろいろ異なる。

 黒奴を使う役人を「テンクルマン」といって、もとはオランダ人である。日本でいえば、雑役夫を束ねる「日用頭(ひようがしら)」のようなものだ。
 テンクルマンは常に、枇榔樹(びろうじゅ)の毛を編んで松脂を塗った三尺ばかりの綱を腰に挟んでいる。その綱を「チャン綱」といい、黒奴を罰するときは、他の黒奴二人に両手を引っ張らせておいて、背を打ち据える。罪の軽重によって打つ数が定められており、最も重罪の場合は打ち殺してしまう。左右の手を引っ張る者も、引っ張り方が強すぎたりすると、これまた綱で打つ。
 また、病気で寝込んだ黒奴があると、病人の胸に小刀を突き立て、勢いよく上に血走るときは療治を加える。血の勢いがないときは療治しない。もはや飲食物を与えず、茶碗に水を入れ、「ソツピル」という葉っぱを加えて飲ませる。
 その水を病人が見て涙を流し、首を振って拒むときは、ただちに腰のチャン綱を外して打ち殺そうとする。病人は恐れて水を飲み、たちまち死んでしまう。どうしても飲まなければ、実際にチャン綱で打ち殺す。
 病気になった黒奴は、みなこんな具合で、十人に一人も生き延びるものはない。航海中に死ねば、袋に入れて海底に沈める。長崎に在留中は官府に届け出る。役人が二人来て死亡を確認すると、寺に送る。
 もし病人が三人いて、うち一人が死ねば、三人死んだと届け出る。役人が見て「二人はまだ生きている」と言うと、「いや、死んでいるのだ」と答えて、ただちにソツピルを用いて死人にしてしまう。生命を羽毛のごとく扱うのは、テンクルマンの常である。

 長崎においては、黒奴が死ぬと、大勢が死骸のまわりに坐って、掌を合わせて経を読み、種々の儀式を執り行う。詳しいことは分からないが、天竺の仏法の遺風であろうとのことだ。寺に送るのはその後だ。
 寺で日本と同じように引導して、死骸は山の下に埋める。自然の石をその上に置くだけで、法名が付けられることはない。鶏や犬が死んだのと同じである。
 およそオランダ人は、犬の狆(ちん)をたいそう可愛がり、黒奴の命は狆より軽んじる。唐人もそのことを憂慮していたようだ。『広東新語』に、「むしろ番狗となるとも、鬼子となるなかれ」とある。鬼子は黒奴をさす。
 唐人は、オランダ人も鬼子と呼んでいる。『国朝詩別載』という清朝の詩集に「紅毛鬼子大洋来」とあるのは、その人面獣心を憎んでのことだ。

 今、長崎に久しくいる黒奴は、日本に慣れ、たいていのことは日本語で会話する。
 ジャガタラにて銅の竿金一本で買われ、その銅で遊女を買い、一晩で失って、あとは日々苦役をなす。そのようにして、生涯を遊女のために使い果たすのだ。
 黒奴は日本の火消のように命知らずで、大海を幾度も往来し、あげくはテンクルマンの手によって魚腹の中に葬られる。何処の国にも、同じ営みの人があるものだ。同じ人の形に生まれて、我が身の運命を悲しまないのは、なるほど鬼子というべきだろう。
あやしい古典文学 No.1824