朝日重章『鸚鵡籠中記』元禄十五年五月より

惣助失踪

 近ごろ、江戸でのこと。
 松平和泉守が、馬廻り役の惣助という者に、女中の供を申し付けた。
 そのとき惣助は、体調不良で気分が悪かったが、女中の供を嫌がると思われるのも心外だと、無理して出かけた。
 ところが、桜田門を出たところで、にわかに意識を失った。気が付いたのは翌日で、浅草金竜山にいた。
 惣助は、『どうしてこんなことになったか分からないが、人はきっと、女の供を嫌うあまり逐電したと思うだろう。それはあまりに不面目。いっそ自害しよう』といったんは思った。しかしすぐに、『ただ自害して、乱心扱いになるのは不本意だ』と考え直した。

 土屋相模守の家来に惣助の親類が二人いて、そもそも惣助が和泉守に奉公に出たのは相模守の取り持ちだった。そこで、二人の親類を訪ねて事情を説明した。その上で自害しようとしたけれども、押しとどめられた。
 相模守から和泉守へ知らせが行って、和泉守が惣助を引き取り、
「少しも悪く思っていない。今までどおり奉公するように」
と申し渡した。惣助は、
「仰せつかった供を外れたことは、申し訳が立ちません。また、このごろ人が多く失跡すると聞きますが、自分もそんな怪しい者の一人だと思うと、とても奉公を続ける自信がありません」
と、あくまで暇を乞うたが、聞き入れられなかった。
 その後、相模守の家来である親類二人が来て、用談を済まして帰るとき、惣助は脇差だけを腰にして、門外まで送った。
 そして、そのまま内に戻るように見えた。ところが、いきなり走りだし、親類二人は驚いて追いかけたけれども、その速さは飛ぶがごとくで、天に昇ったか地に潜ったか、たちまち行方を見失った。

     *

 また、さる旗本衆が、徒歩の従者三人を連れて馬で道を行くとき。
 主人は馬上から、従者の一人が体格に優れ、堂々としているのを、自慢したい気持ちで眺めていた。
 すると突然、その従者の首がなくなり、なおも三歩ばかり歩んで、倒れて死んだという。

 そのほか、あちこちの御屋敷で、下僕の失跡が相次いでいるらしい。もっとも、賭博や酒色におぼれて窮迫し、やむなく逐電した者もあるだろうから、すべてが怪事とはいえない。
 当地名古屋では、五六日前のこと、成瀬隼人正の小番役 内山久内が、下僕を連れずに橘町へ行き、雨が上がったので木履を捨てて草鞋に履きかえ、熱田の方へ向かって、そのまま帰らないそうだ。
あやしい古典文学 No.1828