井出道貞『信濃奇勝録』巻二「大蜘蛛」より

蜘蛛が来る病

 山口という里は、信州飯山から西に半里ばかり隔たった僻村だ。里の中に硫黄という所がある。そびえる山の絶壁にへばりつくようにして、ここかしこに家がある。

 その地に、老母と二人で貧しく暮らす若い男がいたが、男はふと病みついて、一間で臥すようになった。時々、
「蜘蛛が来た…」
と言っては悶え苦しんだ。
 我が子のそばを離れず看病する母親の目には蜘蛛の姿は見えず、医薬の効果もなく空しく日数を経て、蜘蛛に苦しむことがいよいよ酷くなった。
 母親はいたたまれず、飯山有尾の神主 小川氏のところへ行って祈祷を乞うた。
 御札を貰って、蜘蛛が来ると病人が指す戸口に貼ったら、その後は別の戸口から来るらしい。また有尾に行ってたくさんの御札を貰い、戸ごとに貼ったが、なおも何処からともなく来るようだ。
 いったいどうしたらいいのかと胸が潰れる思いで、それでも母親は懸命に看病を続けた。その一念によってか、やがて母親の目にも蜘蛛が見えた。のそのそ這い回るのを、飛びかかって捕らえようとしたら、ぱっと隠れて見えなった。
 逃がしてたまるかと周囲を捜すと、敷布団の下に大きな蜘蛛が潜んでいるのが見つかった。とにかく上から押さえつけたが、あたりには誰もいないから、それ以上どうすることもできない。そのうち、蜘蛛にいかなる通力があるのか、母親の身に糸が纏いつくこと幾重ともなく、しだいに視界も朦朧としてきた。
 これではいけないと、両手で蜘蛛を掴んで庭に持ち出し、押さえながら、声のかぎりに助けを呼んだ。隣家といってもはるか上手に一軒、下手に一軒あるばかりだったが、叫び声が届いて、てんでに斧や鉈を引っ提げた者たちが駆けつけた。
 見れば、その家の老女が、大きな蜘蛛を懸命に押さえつけている。みな用心しながら近寄り、『ここの息子を悩ます曲者はこいつだ』と、思う存分突いては切りして殺害した。あらためて見れば、それは世に比類なき大蜘蛛だった。

 それからは、息子の病も快方に向かった。しかし、全身がひどく痩せ衰え、蜘蛛に血を吸われたか皮膚が剥げて擦れ傷むことおびただしく、少しずつ癒えるにしても日数が必要だった。
 湯治のために杖にすがって野沢温泉へ向かい、途中、有尾の小川氏のところへも立ち寄ったという。
「あれは安永年中のことだった」
と、小川氏が語った。
あやしい古典文学 No.1830