HOME | 古典 MENU |
『西播怪談実記』巻二「山崎の狐人を殺し事」より |
狐の子、人の子 |
播州宍粟郡山崎の御蔵(おくら)は、町並みからほど近い出石(いでいし)というところにあった。 正徳年間の某年、その米蔵に狐が巣穴をつくって子を産んだことがあった。 ある日、山崎の町人 弥兵衛という者の子供がそこへ遊びに行って、巣穴から狐の子を一匹掴み出し、弄んでいたところ、扱いようが悪かったのか、死んでしまった。 それから四五日後の夜、弥兵衛の妻が子供を連れて出かけたまま帰らなかった。夜更けになって町内を尋ねてまわったが、行方が知れなかった。 何事があったかと、一家の者はもちろんのこと、隣町の者まで集まってきて、翌日は手分けして捜した。 やがて、子供は出石川に沈められて、川底に引っかかっているのが見つかった。母親はひじ村というところの七里ヶ岡という峠で、葛で幾重にもがんじがらめに巻かれて、大きな松の枝にはるか高く引き上げられて死んでいた。これはもう狐の報復に違いなかった。 国主は話を聞いて、 「憎むべき狐の仕業である。たかが子一匹に対し、人間を二人も殺すとは、けしからぬ悪行だ。狐狩りをして、わが領内の狐は一匹たりとも助命すまいぞ」 と、家中はもとより下々百姓にいたるまで厳しく命を下した。 狐狩りが行われる日の前夜のこと、出石の蔵奉行 伊呂波立右衛門という人の庭に狐が二匹来て、もの言いたげにひざまずいた。 立右衛門がそれを見て、 「おまえたち、狐の子のかわりに人を二人まで殺したのは、行き過ぎたやり方だ。それゆえ殿様の御立腹はなはだしく、明日狩りをして、おまえたちをことごとく殺そうとお考えになった。しかし、おまえたちもまた可哀そうだ。今夜のうちに、急ぎどこへなりと立ち退くがよい」 と言うと、二匹の狐は踏段の下で叩頭して礼を示し、やがて立ち去った。 翌日、これ以上ない厳しい狩りにもかかわらず、一匹の狐も捕らわれなかったという。 後にある人が言うことには、 「狩りの前の日、夜も更けてから、『狐の子も人の子も、かわいいのは同じことだ』と話しながら三四人連れが行くのを耳にした。さては、狐が化けて通ったのであろうか」と。 これは、山崎の肉親から聞いたことを記したものである。 |
あやしい古典文学 No.1844 |
座敷浪人の壺蔵 | あやしい古典の壺 |