静観房好阿『怪談御伽童』巻四「三州八名郡山伏の死霊」より

山伏の死霊

 むかし、三河の国主に仕える侍に、山香佐ノ右衛門という者があった。
 二百石を知行し、徳をそなえた優美な人柄で、武士道は言うに及ばず、遊芸にもさとく、心は剛直にして仁愛深い、文武にすぐれた人物だった。

 佐ノ右衛門は、とりわけ狩猟を好んだ。勤めのいとまには朝から山野に入り、日が暮れるまで狩りに熱中した。
 ある日、いつものように弓を担げ、矢筒を負って出かけたが、終日歩いても兎一匹、小鳥一羽も獲られなかった。
 秋の日は山間に沈みかけ、吹く風が冷ややかになった。木こりたちも帰る時間だ。「残念だが明日こそ」と帰途につき、日のあるうちにと道を急ぐところへ、ちょうどよく馬子が馬に乗ってやって来た。
「その馬に乗せてくれ」
と呼び止めて、馬子と値段を定め、佐ノ右衛門は馬にうち跨った。
 そこへ山伏が一人来かかって、馬子を手招きして何事か囁いた。馬子は頷いて、佐ノ右衛門に向き直って言った。
「この馬は、あの山伏に貸しますので、下りてくだされ」
 佐ノ右衛門が、
「そんな馬鹿なことがあるか。すでに拙者が借りた馬を、他人に貸すとは何事だ。そんなことはさせない。さあ、急ぎこの馬を引いて行け」
と言い返すと、山伏がしゃしゃり出た。
「この馬は、さきほど馬子と納得づくで借りた。そこもとは下りて、ほかの馬を借りよ。我はこの馬子の得意ゆえ、誰が乗っていようと引き下ろして乗るのだ。さっさと下りるがよい」
 佐ノ右衛門は笑って、
「得意だろうが何だろうが、拙者が先約して乗ったのだから、ご不満でも、ほかの馬を借りられよ。もはや日が暮れる。拙者は八名(やな)まで参る。道が遠いゆえ、少しでも急ぎたい」
と丁寧に断った。しかし山伏は声を荒げ、
「先約だろうと関係ない。文句は馬子の元締めに言え。さあ馬子よ、うじうじせずに馬を引いて我を乗せろ。狐を馬に乗せたみたいにきょろきょろする侍を引きずり下ろせ」
と、睨みつけて傍若無人に罵った。
「さてさて、理不尽な山伏どのだ。なんと言われようと、拙者が借りた馬だから、好きなように乗って行く。馬子よ、来い」
 佐ノ右衛門が馬を歩ませようとすると、山伏は端綱をとって引き止めた。
「この街道で、我が力を知らぬ者があってたまるか。望んだことが叶わなくては、後日のためにならん。下りぬなら、痛い目を見せてでも引きずり下ろすぞ」
「侍は軽々しく下馬しないものだ。世話をかけず、ほかの馬を借りて乗られよ。最前からそう言っておるではないか。その手を放せ」
と言いつつ馬の尻を打つと、馬は歩みだす。山伏はいよいよ怒って地団駄を踏んだ。
「侍だろうが弔いだろうが、我が法力にはかなうまい。寝言の目を醒ましてやる。この法力をよく見よ」
 持った数珠の五尺ばかり中ほどを繰りながら、しばしあちらこちらと行きつ戻りつするさまは、怪しくもまた恐ろしい。
 佐ノ右衛門は笑って、
「正法に不思議なし。わが正法をもって邪法を正してやる。おのれの法力など及ぶものか」
と、抜く手も見せず山伏の首を打ち落とした。
 死骸は倒れず、首は佐ノ右衛門を睨んで、歯噛みしながらくるくると回った。その有様は、恐ろしいとも何とも言いようがなかった。馬子はそれを見て、ただわなわな震えていた。
 佐ノ右衛門は死骸を蹴倒すと、馬子に声をかけ、馬を進めた。しかし馬子は、膝がわなないて歩けない。
 そこで佐ノ右衛門は言った。
「おまえは恐れなくともよい。拙者も人を殺す気はなかったが、見てのとおり無礼で無法なやつだったから、やむをえず手にかけた。少しもおまえの罪科なることではない。もし後日に責め問われたら、見聞きしたままつぶさに申し開くべし。拙者は何某殿の家来で、山香佐ノ右衛門という。怪しい者ではないから、おまえの身にこの上難儀がかかることはあるまい」
 聞いて馬子は大いに驚いた。
「何某様の御家来とは、夢にも存じませんでした。わたくしは御領分の土民でございます。無礼つかまつりましたこと、幾重にもお詫びいたします。最初に約束しながらあの山伏を乗せると申しましたのは、山伏がわたくしを呼び招き、『ことのほか道に疲れた。あの侍を断って我を乗せよ。駄賃はおまえの言い値でよい。さっさとやってくれ』と強いたからでございます。あの者は街道筋に知れ渡ったつわもので、修験の行力も名高く、あれに逆らって後日の仇となるのが恐ろしくて、心ならずも無礼をいたした次第で、どうかお許しください」
 手をすり合わせて詫びる馬子に、佐ノ右衛門は頷いた。
「咎めることなど何もないから、気遣うな。御領分の者とあれば、拙者も心安い。おまえもけっして遠慮は無用だ」
 かける言葉の気軽さに馬子も打ち解け、ともに道を行って、城外で馬から下りると、馬子は帰して、夜の十時ごろに我が家に着いた。

 佐ノ右衛門は、食事をとって後、今日の疲れを休めようと寝屋に入り、やがて家じゅうが寝静まった。
 ところが、すっかり夜が更けたというのに、にわかに喧しい物音がして、夢から醒めた。燈火が消えそうになっていたので、燃え立たせようとして、何やら影のようなものがいるのに気づいた。目を凝らして見るに、人影であった。
 怪しく思いながら燈火をかざすと、夕刻に斬り殺した山伏が、なんとも物凄い形相で、佐ノ右衛門をはったと睨んで立っていた。
 たいていの男なら恐れわななくところだが、佐ノ右衛門は平気だった。ただ、妻子が目を醒ましてこれを見れば恐れるだろうと気遣い、自分の夜具を屏風の外へ引き出し、妻子の寝ている方を屏風で囲うと、燈火を近くに立てて横になった。
 山伏は怒りを顔にみなぎらせ、枕元に立ってまばたきもせず睨み続けたが、佐ノ右衛門は取り立てて気にせず、よく眠った。
 夜明けがたになって、山伏は消え失せた。

 いつものように起きて、その日も山狩に出かけるつもりが、雨が強く降るので家にいて、佐ノ右衛門は妻に言った。
「しばらくのあいだ、おまえと二人の子は、別の座敷に寝るがよい。わしは思うところがあるから、今夜から一人この部屋で寝る」
 妻は訝しみながらも肯って、夜になり、家内それぞれ寝静まった。
 山伏は前の夜より早く出て、一人で寝ている佐ノ右衛門の前に、まっすぐ立った。佐ノ右衛門は無視して寝たままでいた。
 その後も山伏は毎夜出たが、佐ノ右衛門を睨むだけで、ほかに何の怪しいこともなかった。しかし後には、妻をはじめ家内の者が山伏を見て、気を失うなどして二三日ずつ寝込んだりした。
 妻の父親は田村軍蔵といって、同じ家中で物頭役を務めていたから、妻は幼子二人を連れて実家へ行き、そちらに留まることになった。従者たちも一人また一人と暇を乞い、佐ノ右衛門は無理もないと思って許したので、皆去っていった。

 佐ノ右衛門はある日、同僚十数人を招いて、山伏の亡霊が出ることを語り、しばらく病気と称して勤仕を休みたいと相談した。
 集まったのはいずれも勇気の人だったから、大いに議論が起こり、
「今宵は是非ここに泊まって、その化け物をひっ捕らえよう」
などと言う。佐ノ右衛門がいくら断っても聞き入れず、全員で夜になるのを待った。
 未だ日が暮れぬうちに山伏が出た。
 人々は一斉に刀を抜き、我こそ討ち取らんと騒いだが、打てば消え、退けば現れ、幻のようだから、まったく扱いかね、夜もすがらただ抜刀して空を切り払うのみだった。何の成果もないまま夜が明けると、人々は興を醒まして帰っていった。
 その後も家中の諸士が夜ごとに集まり、斬ってやろう、捕らえてやろうとしたけれど、出来なかった。
 佐ノ右衛門はあえて手を出さず、年が改まると死霊は昼間も出るようになったが、病気と称して引きこもった今は、昼となく夜となく、ひたすら山伏と向かい合っていた。
 訪ね来る人々が「祈祷などしてはどうか」と勧めるのを聞き入れず、月日を経るにつれて山伏が影のごとくつきまとうようになっても、あくまで屈せず、大きな家で昼夜山伏と向き合い、少しも臆した様子がなかった。

 やがて人も来なくなり、七年が経った。
 佐ノ右衛門は思い立って舅の田村軍蔵のもとを訪ね、無沙汰を詫びて妻子に会った。まる一日気持ちを晴らして、さて立ち帰ろうとしたとき、佐ノ右衛門の長子で七年前母とともに田村家に来た佐助という少年が、父親に向かって言った。
「それがし、はや十五歳になります。赤子のごとく変化を恐れているのは、世間に恥ずかしいことですから、お供して帰りたく存じます。このことは度々祖父母および母へも申しておりますが、お許しがありません。なにとぞ父としてのお口添えにより、それがしを連れ帰ってください」
 我が子の大人びた物言いに、生い先が頼もしく、嬉しいことを言ってくれると喜んだ佐ノ右衛門が、軍蔵に対し、
「長きにわたり妻子を預けおき、お世話いただいたこと、お礼の言葉もありません。さて、せがれ佐助のことですが、思うところがあるようで、同道して帰りたく…」
と言うと、母をはじめ、祖母そのほか皆が止めようとした。
 しかし佐助がいさぎよく、
「伝え聞くに奥州の千代童子(ちよどうじ)は、十三歳にして父の安倍貞任に従い大敵に当たりました。源頼朝卿は十三歳の時、敗軍の中で父と離れ離れになりながら、数多の敵を切り払って奮戦しました。名高い名将・勇士ばかりでなく、近ごろも何某殿は、伯父の仇を十四歳で討ったとのこと。その働きに後れをとろうとは思いません。ぜひお供して帰りたいものです」
と言うと、人々はそれ以上とめることができなかった。母も内心は心配でたまらなかったが、人目を恥じてとやかく言わずに我が子を見送った。

 佐ノ右衛門父子が家に帰ると、すでに死霊が待ち受けていた。佐助がそれを見て、刀を抜いて打ちかかるのを、佐ノ右衛門は押しとどめた。
「少しでも相手にしてはならない。むかし天竺の斯任という者は摩伽園に七世まとわりつき、中国で趙の何某は孟竺に十八年離れず、我が国でも文覚の怨霊が後鳥羽院につきまとった。みな怨執が深くて悪業を去り難い者の為すことだ。取り合うには及ばない。さあ、寝よう」
 二人は横になって、よく寝入った。と、突然、
「わっ!」
という声。
 佐ノ右衛門が驚いて見ると、山伏が佐助に馬乗りになって、首を捩じ切ろうとしている。佐助は枕もとの刀に手をかけるのがやっとで、押し伏せられて身動きできない。
 佐ノ右衛門は激怒し、起き上がって刀を抜き、死霊を切り払って、
「憎いやつめ、汚いやつめ。せがれに何の恨みがあるのか。もとはといえば、おのれが邪法を誇って威張りちらし、人を人とも思わぬ悪逆を為すゆえ、天が我が手を借りて罰したもうたのだ。その天罰をわきまえず、死して傲慢の外道に落ち、悪道に迷って我を恨む。それは是非なしとしても、せがれがいまだ非力なのに目をつけて鬱憤を晴らす卑怯な料簡、とんだお笑い草だ」
と大いに嘲り、負傷した佐助を介抱した。夜が明けると医者を呼び、薬を用いるなどして治療をした。
 いっぽう母親は、子を行かせたものの一晩じゅう心配で眠れず、未明に人を遣って様子を尋ね、怪我のことを知った。
 すぐにも駆けつけたいと思うも叶わず、迎えを出して呼び戻し、いまさらの繰り言は人聞きの悪いことながら、女のならいでさまざまに嘆いたのも無理はない。
 痛みは日を追って薄れたが、佐助の首は後方に捩じれたままで、いろいろ治療を試みるも、元に戻らなかった。口惜しがっても、どうにもならないのだった。
 首は右後方に捩じ向いたけれども、元気な体になったので、佐助は祖父の軍蔵に「また父のもとに行きたい」と願ったが、今度ばかりは皆が強硬に止めて許さなかった。

 それから一年ばかり過ぎて、佐助は人々をあれこれ説得し、やっとのことで父のもとに帰って、父とともに山伏に向かい合った。
 この後は、死霊も佐助に手を出さなかった。佐助は首の捩じれた口惜しさを一日たりとも忘れなかったが、死霊に恨みを言っても甲斐がない。そんなわけで、三人ただ睨み合って日を過ごすばかりだった。
 死霊出現九年目の初秋あたりから、二三日ずつ間をおいて出るようになった。夜だけ出ることもあった。昼にちらっと見えて、夜は来ないこともあった。
 冬になって、まるで出なくなった。佐ノ右衛門父子も怪しみ、
「どうしたのだ。あの化け物は、なぜ出ないのか」
などと言いながら待ったが、その後は夢にさえ来なかった。

 年が改まっても、死霊はいよいよ影すら見えないから、佐ノ右衛門は、妻子も従者もみな呼び返し、病気全快と報告のうえ、勤仕を願い出た。
 出勤すると、同役衆を招いて饗応し、なにやら紙に包んだものを一人ひとりの前に置いて回った。
「これは何か」
と人々が問うに、佐ノ右衛門が言うには、
「拙者が山伏を手にかけたのは、殿の御用で出た道でのことではなく、遊山の帰りであった。山伏の狼藉がもととはいえ、つまるところ拙者一身の私闘である。そのために九年のあいだ勤仕を休んだのは、本来なら言い訳できないことだ。しかし、お心遣いによっておのおのがたに代役を勤めていただき、おかげでゆっくり病気養生して、全快つかまつりました。御厚情にはいかようにしても報いきれないが、九牛の一毛にも及ばずながら、せめてもの寸志でござる」と。
 紙包みは、佐ノ右衛門の知行からの九年間の収入を、十余人の同役に等分に分けたものだった。
 人々はしきりに辞退したけれども、佐ノ右衛門が道理を述べ、収めてくれるよう頼むので、やむをえず受け取った。皆は、まことに見上げた心がけの武士であると、感心したそうだ。

 これはごく最近の出来事で、首の捩じれた佐助の縁者にあたる人が語ったことである。
あやしい古典文学 No.1874