中村満重『続向燈吐話』巻之七「犬、婦女をうばひし事」より

犬の執心

 伊豆の国でのことだという。

 ある町人の妻女は、つねに飼犬を可愛がって、夜は衣を敷いて寝させ、朝は早起きして食を与え、人の子のように大切に養育した。
 ところが犬は、いつの頃からか、夫婦の臥している寝室に来て、睦まじく囁く声を聞いては猛り吠えるようになった。
 うるさく、恐ろしく思って、人に頼んで遠くに捨てさせたところ、頼んだ人が戻るより先に犬は家に帰り、夫婦の前に膝を折り、尾を振って、謝るような仕草をした。それを見て、
「馴れ親しみ、可愛がってきたものを非情に殺すのも、さすがに不憫だ」
と思い直し、元どおり飼っておいたら、やっぱり寝室に来て吠えまくった。
 もはやどうしようもない。
「明日は打ち殺して捨ててしまおう」
 主人は腹を決めて、その夕方、
「今生の名残だから、思う存分食わせてやる」
と美食珍味のたぐいを与えたが、犬は主人の腹を察してか、いっこうに食べなかった。

 翌朝、妻女がいつものように器に食物を入れて差し出したとき、犬は飛びかかって妻女の首筋に食いつき、そのまま引きずりながら戸外へと走り出た。
「だれか、助けて。犬がわたしを犯すよ」
 手足を振り回して叫んだので、家内の者どもが驚いて出てきて、あとを追って走ったが、犬の速いこと奔馬にひとしく、とても追いつけなかった。
 しかし先には大河があって、犬が逡巡するところに、大声をあげて追手が迫った。道行く人にも加勢を呼びかけたので大勢集まって、川端で犬を捕らえた。
 縄で四足を縛り、首に石を付けて川水に投じると、何度か浮かび上がり、吠え怒る声は凄まじかった。しかし、ほどなく水底に沈んで、姿が見えなくなった。

 さて、妻女はというと、命は助かったものの、首筋を咥えられて行く道すがら、石で身を擦り破り、血にまみれて、その苦痛は堪えがたいものだった。
 家に帰って医者の療治を受けたが、首筋に犬の歯形があり、その傷が瘡になって、一年あまり苦しんだすえ、ついに死んだとのことだ。
あやしい古典文学 No.1881