松浦静山『甲子夜話』巻之七十三より

天狗界の話

 わが屋敷の下僕に、上総国の中崎村の農夫で、源左衛門という五十三歳の男がいる。
 この男はかつて、天狗に連れ回されたとのことで、その話す所の大略は、次のとおりだ。

 源左衛門は、七歳の祝いに、馬の模様を染めた着物を着せられて、氏神の八幡宮に詣でた。そのとき社殿の傍らから山伏が現れて、それに連れ去られた。
 行方が知れないまま八年が過ぎたので、死んだものとして仏事が執り行われたが、そのせいだろうか、源左衛門は山伏に、
「おまえの身は不浄になったから、返す」
と言い渡され、相州大山に置き去りとなった。
 里人に発見されたとき、腰に付けた札に生国も名前も書かれてあったので、宿場から宿場へと順に送られて帰宅することができた。
 家に帰り着いたとき、七歳のときの馬を染めた着物をそのまま着ていたが、少しも損じていなかったそうだ。

 その後三年間は実家にいたが、十八歳の時、また先の山伏が来て、
「迎えに来た。連れて行くぞ。背中におぶさって目をつぶれ」
と言うや、帯のようなもので肩に結わえて飛んだ。風の音ばかりを聞きつつ行って、着いたところは越中の立山だった。
 そこには大きな洞窟があって、加賀の白山に路が通じていた。路の中途に二十畳ほどの居室があり、僧・山伏十一人が座っていた。源左衛門を連れ戻した山伏は、名を権現といった。源左衛門は長福坊と呼ばれた。十一人は権現を上座に置き、長福坊もその傍らに座らせた。このとき初めて乾菓子を食したという。
 十一人は、おのおの口中で呪文を誦ずる様子で、やがて笙(しょう)・篳篥(ひちりき)の音がすると、みな立ち上がって舞を舞った。
 かの権現は白髪で、その髪の長さは膝まで及んだ。温和にして慈愛にあふれており、天狗ではなく仙人だとのこと。実際、源左衛門が諸国を廻るなか、奥州には昔の大将で仙人になった者が多かったそうだ。

 権現に伴われて鞍馬・貴船に行った時には、千畳敷に僧が大勢座していて、参詣の人々の祈願するあれこれが、その心中・口内に入ったかのようによく聞こえた。それを聞きながら、天狗たちは議論するのだった。
「この者の願いはもっともだ。叶えてやろう」
と言うかと思えば、
「こいつ、救いがたい愚か者だ」
と大笑いすることもあった。
「よからぬ願いだ。けっして叶えてはならない」
と言って、なにやら呪文を唱えたりもした。
 また、諸山に伴われて行くと、どこであっても天狗が出てきて、権現から剣術を習い、兵法を学んだ。源左衛門も教えを受けたという。申楽、宴歌、酒席にも連れられて行った。
 そのいっぽうで権現は、毎朝、天下安全を祈って勤行した。あるときは、昔の一の谷の合戦を見せてくれた。山頂に色鮮やかな旗々が翻り、人馬が群走し、鬨の声があがって、その有様は何にたとえようもないほどだったという。まさに妖術であろう。
 世に「木葉天狗」と呼ばれる者もあちこちにいた。天狗界では「ハクロウ」と呼び、狼の歳経たものがなるそうだ。きっと白毛の生じた老体に付けた名であって、「ハクロウ」は「白狼」であろう。

 十九歳のとき、また人界へ帰すと言って、天狗の部類を去る証書と兵法の巻物の二つをくれた。そして、脇指を差させ、袈裟を掛けて帰してくれた。
 最初に天狗界に入ったときに着ていた馬の模様の着物、証書、兵法の巻物の三品は、上総の氏神に奉納した。脇指と袈裟は今も源左衛門が所持しているというが、筆者はまだ見たことがない。
 奉納された巻物を宮司が密かに開いて見ようとしたことがあったが、目がくらんでほとんど見ることができず、またそのまま納めなおした。巻物は梵字で書かれてあったそうだ。

 ところで、天狗が何かを購入するときの銭は、ハクロウどもが薪などを採って売り、あるいは人に肩を貸しなどして駄賃を貰い、その銭を用いる。天狗は酒をたしなむという。
 南部の地に恐山という高山がある。その奥十八里に天狗の祠があって、「ぐひん堂」と称する。そこに毎月下旬、信州より善光寺の如来を招じ、その利益(りやく)を頼んで、ハクロウどもが三熱の苦を免れんことを祈る。如来来向のときは、権現ほか皆が出迎え、白昼のごとく炬火がかかげられる。
 源左衛門は天狗界にあった間、菓子を一度食したきりで、物を食うことがなかった。したがって大小便もなかったという。

 以上の話は、本人から直接聞いたことだが、虚偽の疑い無きにしも非ずと思われよう。しかし、今まで源左衛門が出鱈目を話したことはなかった。おそらくは天地の間に、彼の語るような妖魔の世界があるのだろう。
あやしい古典文学 No.1900