上野忠親『雪窓夜話抄』巻三「伊福部氏槌を得る事」より

打出の小槌

 因幡国大蔵少輔 伊福部宿祢勝世という人にまつわる話だ。

 伊福部氏は、延享四年十二月晦日の夜、翌元日に必要なものを土蔵から取り出すため、手燭を持って母屋との間を何度も往来した。
 夜が更けたころ、ほかに何か忘れたものはないかと思いめぐらすに、春盤の積み物をまだ出していなかった。そこで、また土蔵へ行くと、網戸の前に槌が一つあった。人が持ってきて丁寧に置いたように、正面に据えてあった。
 さっきまではなかった物だから、不思議に思いながら持ち帰り、母屋にいた大勢に見せてあれこれ言い合ったが、どうもよく分からない。
 普段大工が使うような槌ではない。強いて言えば、新年を迎えるにあたり、小児の弄びものに拵えたものだろうか。材は桐の木。槌の横幅六七寸、周囲が三四寸。短い柄が槌を抜き通し、下に出た部分は末広がりの銀杏の葉のような形で、穴があって紅の房がついていた。全体は黒塗りで、ところどころに金銀の箔を貼ってある。ついさっき拵えたばかりのようで、箔が定着せず、ひらひらとして見えた。
 伊福部氏の居宅の近所は土民ばかりが住む村里で、人の慰みにこのような玩具を拵えたりすることは決してない。
 不思議なことだと世間で評判になって、見物に来る人が大勢いた。そこで、
「一二里四方の間に、この槌を拵えた者に心当たりがあるなら、必ず申し出よ。隠してはならぬ」
と触れたけれども、出所を知っていると言ってくる者はなかった。

 このことは、野狐の仕業かとも疑われた。その一方で、
「年の初めだから、福神が授けた打出の小槌ではないか」
とする人が、多く祝賀に参来した。
 伊福部氏も大いに喜んで、酒肴を出して毎日饗宴を催した。
 後には槌を神に祀って、土蔵の内に固く封じ込めたとかで、もはや所望する人があっても見せなかった。
 しかし、この小槌の得て以後、伊福部氏の家には吉事らしきことは少しもなくて、かえって嫡子の中務という者が、まもなく死去したそうだ。
あやしい古典文学 No.1904