馬場文耕『当時珍説要秘録』巻之五「田中休愚右衛門人見御供に備りし武勇の事」より

ギギウ大明神

 川崎の田中休愚右衛門は、問屋場の取るに足らない男だったのが、だんだん取り立てられて代官にまで昇進し、御目見(おめみえ)の身分となった人物である。

 出世する前は川崎のただの百姓で、近郷に女房の実家があった。
 あるとき休愚右衛門は、舅のところに顔出ししようとして、土産に持参するものが何もなかったから、網を持ち、近辺で漁をして、ようやくナマズの仲間のギギウという魚を獲った。
 ギギウを提げて女房の実家へ向かい、途中の山にかかったとき、猟師が張っておいた網の中にキジが一羽かかって羽をバタバタしているのを見つけた。さいわい狩人も居合わせない。
「これはいい。舅への土産に頂こう」
 キジを奪い取り、持っていたギギウをかわりに網の中に置いて、休愚右衛門は舅方へ向かった。
 その後へ猟師が来て見てまわると、山網の中にギギウがいたから、たいへん驚いた。
「なんだ、これは。合点がいかん。きっと凶事が起こる兆しだろう。水中に棲む魚が、山中に来て網にかかるとは……」
 そのうち馬鹿者どもが大勢集まって、陰陽師を呼んで占わせた。占者は、
「これはひとえに山神の怒りであります。このまま捨て置けば、村は一人残らず死に失せるでしょう。このギギウを、よくよく祭らねばなりません」
と言う。人々は大いに恐れをなして、陰陽師に指図されるまま、いろいろの物を取り集め、ギギウを新しい桶に入れて、その上に小さな祠を建てた。鳥居・玉垣をしつらえ、ギギウを大明神として祭った。
 以後は供え物も欠かさなかったが、あるとき、神が巫女に託宣して、
「村から一人、男子でも女子でもいいから、人身御供をよこせ。もし逆らえば、村じゅう皆殺しだ」
と言ったのには、みな困惑した。
「これはまた、どうしたものか」
「なんとか金で人の命を買い求め、人身御供にするしかあるまい」
「いらぬ命を売る者が、どこかにいないか」
 そんなことを言い合っていると耳にして、休愚右衛門は可笑しくてたまらず、やがてその村へ行き、申し出た。
「拙者は近郷の者だが、生まれつきの博打好きで身持ちが悪く、いまや進退窮まっておる。老母一人を養うこともなり難く、そんな有様では世間の交わりもかなわない。いっそ首を括って死のうと覚悟を決めたところ、聞けば人身御供をお求めとのこと。なにとぞ少々の金子を老母に下されたい。拙者の命を売り申す」
 人々はたいそう喜んで、
「それはありがたい。もちろん金子を差し上げよう」
と、休愚右衛門が老母に扮装させて連れてきた女に、村から二十両を渡した。

 さて、村人たちは休愚右衛門に沐浴させた。新しい白布を着せ、髷を解いて散らし髪にし、祭壇の飾りの中に入れた。
「今夜半にギギウ大明神が出現して、ひと呑みになさるだろう」
と、山伏どもが経などを読んだ。
 やがて人身御供だけを捨ておいて、みな帰ってしまった。
 夜半のころ、休愚右衛門はそっと壇から下りた。まず祠を打ち壊し、桶を引き出して見ると、恐ろしいことにギギウは三尺ばかりにまで成長していたが、そんなことには少しも驚かず、鳥居をも破壊した。
 ギギウを打ち殺し、灯明の火で茅などを燃やして焼魚にした。身も骨も休愚右衛門ひとりで食らい尽くし、御神酒として供えられた酒をしたたか飲んで、悠々とその場を立ち去った。
あやしい古典文学 No.1906