青葱堂冬圃『真佐喜のかつら』二より

犬の顔

 四谷内藤新宿に、水茶屋渡世の豊田屋という家があった。あるじは米吉という二十三歳の男だった。
 天保十五年、母ならびに女房を殺した米吉は、勘定奉行跡部能登守役宅にて吟味のうえ、留役増田作右衛門によってなお吟味が続くなか、牢内で病死した。

 いたって柔和で実直な性質の米吉だったが、あるとき、どうしたものか飼っていた犬を殺し、そのあと髪結床の飼い猫を誤って殺し、それより狂気を発した。言動すべてが不穏となり、親も女房も心を痛めて、神仏に祈念するも験がなかった。
 四月三日の夜、米吉がふと目覚めると、添い寝していた女房の顔が犬のように見え、驚いて人から預かっていた刀で斬り殺した。その物音で隣の間に寝ていた母が起きてきたのを見れば、これもやはり犬の顔だったから、一打ちに斬り殺した。
 そのとたん正気に戻り、みずから役人宅へ駆け込んで、委細を語った。

 米吉は筆者も知る者で、ともかく憐れな出来事であった。
 豊田屋は絶えて、今はない。
あやしい古典文学 No.1915