青葱堂冬圃『真佐喜のかつら』一より

女児の出産

 「下総国相馬郡藤代宿で、八歳の女児が男の子を出産した」との噂につき、御用のついでに調べるよう仰せがありました。
 このたび私の預所(あずかりどころ)である常州の村々に派遣した手代どもが、藤代宿を通行のおり、噂の真偽を問い尋ね、女児ならびに出生の子も見届けて、昨日夕刻帰り着きましたので、ことの詳細を申し上げます。

  土屋給三郎領分
  下総国相馬郡藤代宿
    久右衛門叔母 かな
    婿養子    忠助(三十八歳)
    忠助女房   よの(三十歳)
    娘      とや(八歳)
 右の忠助は、私の預所 常州筑波郡城中村の忠兵衛の次男で、先年藤代宿の酒屋伊平次方に奉公し、その後同宿内の久右衛門叔母かな方の婿養子となった者であります。かなの娘よのと夫婦となり、八年前に女子が誕生、とやと名づけて養育しておりました。
 とやは四歳のときから月経が始まりましたが、そのときは何かの病気だと思って、薬を飲ませなどしておりました。いっこうに効き目のないまま、当年正月ごろ月経が止まり、三四月ごろより懐妊の兆候が見えてまいりました。
 さりながら、密通などの様子はまったく見当たらず、そもそも幼年の身でそういうことがあるはずもないゆえ、やはり病気なのだろうと思っているうち、月ごとにそれらしい体になってきたので、医者に診せ、これまでの経緯も説明したところ、「懐妊に間違いない」との見立てでありました。
 いささかも情交した形跡がないのに八歳の者が懐妊したとは、なにぶん信用しがたく、しかし医師がそう言うのも無下に否定しきれず、あちこちで占いなど頼むと、狐狸の仕業だとか病気だとか、種々の判断が出て一致しません。しかし、よく当てると評判の同郡中矢原村の大工 岸蔵は、「懐妊に相違なく、子は男子である」との占いでした。
 気をもむうち、折々腹の中で子が動くようになって、いよいよ懐妊と定まり、もはや神仏の加護を祈るほかないと覚悟を決めて日を過ごしました。
 当月二日朝六時、とやは小用に行き、戻って寝間に入って、何の苦痛もなく男子を安産。すぐさま家内一同で介抱いたしましたところ、とやはいたって元気で、しばらくすると乳も出たので、早々に赤子に呑ませました。
 「母子ともに丈夫で肥立ちもよい」と、領主・役場に届け出たとのことですが、とても実事とは思われない、あまりに珍しいことであります。
 実際に会ってみると、とやは八歳にしては少し大人びていて、十歳くらいの年格好に見えますが、「けし坊主」と呼ばれる小児の髪型で、ともかく幼年の者にはちがいありません。
 いまだ産屋に寝起きし、乳は小さい体ながら相応に張って、大人同様に出ております。
 出生の子は普通の大きさで、いたって健康。赤子らしい肌の色で、無事成長する様子に見受けられます。
 手代の見聞きしたところ、右のとおりでございます。以上。

  文化九年九月
    吉岡治良右衛門

      *

 後聞によれば、とやが産んだ子には瞳が二つあった。
 領主の土屋侯が養育するうち盲目となり、親に引き渡されて後、江戸の藤代検校の弟子となった。この検校は、藤代宿の生まれだという。
 子は十六歳で病死したとのことだ。
あやしい古典文学 No.1916