堀麦水『三州奇談』三之巻「高尾隠鬼」より

高尾の隠鬼

 「高雄山」は、富樫次郎政親の城跡である。麓は「四十万(しじま)」の里といい、背後は「黒壁」といって、昔から魔の棲むとされる場所だ。
 木こりも日が傾いてからは行かないという黒壁は、数百丈の絶壁である。そこで不動の尊像が掘り出されたが、人の手になったものではないと言われる。柴を刈ったり落葉を採りに行ったりして、異人に遇って命を失う者もずいぶん多い。
 高雄山にはまた、不思議な鬼火があって、里人は「坊主火」と呼ぶ。猟師が古狸の大入道に化けたのを獲って後、坊主火は出なくなったというが、今もなおこの辺りから松任の海辺まで燐火が飛ぶことが絶えず、それが何なのかは知られていない。
 ある人が語ったところでは、この山の山上には多くの穴があり、そこに誤って落ちてしまったら、道を来る人を呼んで縄を下ろしてもらって上る。ところが、たまたま人通りのない日に落ちた者があって、仕方ないので穴の中にあった小さな横穴を行き、十日ばかりかけて闇中をくぐり抜けた。出たところは飛騨との国境で、庄川の岸の絶壁の間だった。金沢に帰ると、人々はあの世から蘇った人のように見て、穴からの脱出行の詳細を尋ねたが、本人はただ闇の中を這い回っただけなので、とりたてて話すことがなかった。
 麓の村の四十万は、人家の多い村ではないようだが、天正のころの戦場としてなはなだ名高い。浄土真宗の道場があって、善性寺という。そのあたりの大寺で、蓮如上人の旧跡である。寺の背後に「大木」といって中が空洞になった大樹がある。空洞は、およそ三十余人が隠れることができる広さだ。近年乞食が住み着いて火を焚いたので、木は枯れてしまった。

 享保年間のこと。金沢の浅野川の川下に、弥助という猟師がいた。
 弥助は、朝には露を払って山野を走り、日が落ちてからやっと家路につくという毎日を送っていた。それが生業とは言いながら、朝から晩まで生き物の命を絶ち、ただはかない浮世のことばかり考えて、未来永劫の罪を恐れなかった。
 月日はたちまち過ぎて、堪えがたい暑さもいつしか秋風に替わり、ほどなく旧暦七月十三日、魂祭りのころになった。今は亡き人の魂を迎える日で、家ごとに燈火をともし、香花を供え、読経などして故人の追福をなす日なのに、弥助は意に介さず、その日も猟に出た。
 ところが、朝の起きる時間を間違えて、久保の橋に至ったときはまだ真夜中の二時過ぎ。月は明々と西の空にかかり、暗い雲の下をはるか遠くより猿の悲しげな啼き声が通う。ほかに聞こえるのは松を過ぎる風の音ばかりで、橋の上に人影はない。
 行く手を見れば、左は高尾山の麓、右は松の群立する林。その下道に、齢四十ばかりの女と、もう一人は十八九の女が、白い衣をまとい長い髪を乱して路傍に座りこみ、さめざめと泣いていた。
 弥助は怪しく思ったが、それくらいで引き返すわけにもいかず、恐る恐る近づき、
「何者だ」
と問うたが、答えはない。
 なんとなく足早になって通り過ぎ、少し行って振り返ると、二人は間近に追って来ていた。これはまずいと逃げ走り、知り合いのいる四十万の道場にやっと駆け込んだとき、さっきまで後ろに迫っていたはずの女たちの姿はなかった。
 夜が明けて、里人に語ると、
「そうなんです。毎年七月十三日には、必ずその女たちが出て、行き逢った人は少なくありません。古老の話では、むかし松任の城にあった鏑木六左衛門という者が、一向一揆勢のために一門もろとも滅ぼされた。この道場すなわち善性寺の先祖は法教坊といって、一揆方として城攻めに加わったため、鏑木六左衛門の妻の怨霊が、今もこの寺に来るのです」
と教えられたのだった。

 また、これも享保のころのことだ。
 奥田宗伝という医師が、松任から往診を頼まれて、夜分に駕籠を走らせて行き、夜半過ぎに帰っていく途中、道端に七八人が居並んで、宗伝の駕籠を呼び止めた。
「我らは四十万村の何某という者です。老父が急病で、今夜の命も危うい容態のため、貴宅までお迎えに参りましたが、『先生は松任へお出かけだから、お帰りの道で待たれよとのこと。よって、ここまで参ったしだい。どうか、ここからすぐ我らの用意した駕籠を召され、我が老父を見舞ってください」
 一生懸命頼むので、見知った人たちではないものの、医は仁術と心得る宗伝は聞き捨てにもできず、迎えの駕籠に乗り換えて四十万村へ向かった。後から思えば、納得のいかない点も多かったのだが…。
 四十万村では、見覚えのない、いかにも庄屋と思われる大きな家に入った。多数の男女が立ち騒ぎ、奧へ続く幾つもの間で灯火が輝いていた。
 病人の寝間に入ると、その臭気が堪えがたかった。病人は齢六十ばかりの肥え太った人物で、顔は絹の布で包まれて見えなかった。
 脈をとるに、速い拍動で刀傷の類であり、『さては自害をし損ねたか』と思われた。
「これ以上の治療は、外科にかかるしかない」
と言って、わずかに薬一貼を与えて帰った。
 金沢の宅に着いたのは真夜中で、駕籠の者、付き添いの者はみな懇ろに礼を言って引き返して行ったが、衣服についた臭気は久しく消えなかった。
 その翌日、宗伝の宅に、かの病家からの人は誰も来なかった。不思議の思いは晴れやらず、人を遣って尋ねさせたところ、四十万にそのような病人はおらず、宗伝が訪れたような家もないとのことだった。
あやしい古典文学 No.1928