滝沢馬琴編『兎園小説』第六集「土定の行者不死」より

土定の行者

 信濃国伊奈郡の平井手という村に、たいそう大きな欅があった。
 文化十四年の秋のころ、さしたる風雨もないのに、大木はおのずから倒れ、根が覆ってできた穴の中に、一つの石櫃が現れた。
 里人たちは、訝しんで眺めているうち、石櫃の内から鈴鐸(れいたく)の音と読経の声が微かにするのに気づいた。
 みな驚き怪しんで、どうしたものかと集まって相談した。そのとき里の老人の言うことには、
「昔、天竜海喜法印という山伏がいて、所願により、自ら生き埋めとなって往生しようとした話を聞いたことがある。思うに、その法印が今なお土中で死なずにいるのだ。きっとそうだ」と。
 なるほどと頷いた里人たちが、石櫃の上の土を払って見ると、歳月や名字が彫り付けてあって、まぎれもなく土定の山伏のものだったから、感嘆して信仰を起こさない者はなかった。

 人々は、急ぎ注連縄(しめなわ)を引き廻らし、芦垣まで結んで、みだりに人を近づけないようにした。
 そうするうちにも、近隣の村々の老若男女が聞きつけて、群をなして参詣した。そこで、さらに仮屋のようなものを繕い、線香・洗米などを準備した。参詣者はいよいよ増して、大変な繁盛ぶりとなった。
 しかし、石櫃はそのままにして、いまだ開くことをしなかった。鈴鐸の音、読経の声は、月を経ても絶えなかった。
 石櫃の上面には、息抜きの穴が三つ四つあった。扉石は二重になっていて、第一の扉は開けたが、第二の扉は内側から鎖してあり、開けられなかった。その後は村人も恐れて、開こうとも思わなくなったのである。
 ともあれ、その年の冬のころまで、参詣の人は絶えなかったそうだ。

 この話は、同年の十一月から筆者の家に奉公している、初太郎という下僕が語ったものだ。
 初太郎は、信濃国高島郡下諏訪真字野村の者である。故郷にいたころ、すでにこの話を伝え聞き、このたび江戸へ向かう道すがら、同行の者とともに平井手村に立ち寄って、かの石櫃を実際に見たという。
「では、その年号は何と彫られていたか」
と尋ねると、
「年号は覚えておりませんが、おおよそ今から百五十余年前だと聞きました」
と答えた。
「それなら明暦・万治のころか。寛文ではなかったか」 
などと年号を挙げて問い質しても、それ以上は満足な返事がなかった。
 こうした怪しい話には空言も多いから、どうも信じがたいと思う一方で、二十歳にも足らない純朴な田舎の若者が『たしかに見た』と言うのだから、作り話ではあるまいとも思われる。
 もし同地の人に出会うことがあったら問うてみようと思いつつ、雑記帖に記しておいたのだが、その後は尋ねる機会もなく、今日まで過ぎてしまった。

 『見聞集』には、次のような記事がある。
「慶長二年ごろ、江戸にやって来た行者が、『来る六月十五日、神田の原の大塚のもとで火定する』と町々に触れて回った。当日は、それを拝もうと貴賤の者が群集し、広い野原も立錐の余地のないほどだった。
 塚の下に作った棚に行者が上り、その下に積んだ薪に火をつけ、燃え上がったところで、行者は火中に飛び込んだ。あるいは、弟子の行者どもが周りから突き落としたともいう。
 筆者は、火定の場面を実際に見たわけではない。しかし翌日、友人と一緒に現場を訪れた。大塚の辺りを見るに、人の姿は一つもなく、燃え跡には骨まじりの灰ばかりが残っていた」
 ここから考えるに、およそ慶長・元和から明暦・万治の頃までにも、世間の評判を得るために命を捨てる似非行者が、江戸の外にもいたと思われる。
 火定の行者は、弟子に突き落とされたにしても、たちどころに死んだろうから、まあそれで片がついたといえる。しかし、土定のほうは問題だ。
 百五六十年も死に果てないのは、よほどこの現世に執着する欲念が凝り固まって、迷いの上にも迷った結果なのだが、世間の人々の心は道理に暗く、ただ珍しいというだけで信仰を起こしたりする。
 もし今、ここに不死の行者がいるなら、智識の杖でもって破却して、成仏させてしまいたいところだ。
あやしい古典文学 No.1936